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bravesoftの
プロフェッショナル社員

社員紹介vol.3 池田 純康

池田 純康 外資系大手企業からベンチャー企業へ転身!“ものづくり”を追求して

池田の履歴書

池田純康。一風変わった「すみやす」というファーストネームは社内にも浸透し、親しみを込めて「すみやすさん」と呼ばれる事もしばしば。

1981年11月

千葉県柏市で誕生

1987年4月

柏第七小学校 入学

1994年4月

柏第三中学校 入学

1997年4月

県立柏高校 入学

2000年4月

法政大学 情報科学部 入学

2004年7月

University of California, Irvine 入学

2006年1月

日本マイクロソフト 入社

2016年4月

日本マイクロソフト 退職

2016年5月

bravesoft株式会社 入社

2016年7月

EXTチーム リーダー就任

2017年7月

執行役員就任

2018年1月

受託開発事業部 事業部長就任

2019年1月

兼任としてグローバル戦略本部 統括に就任

2020年1月

グローバルグロースUNIT 統括に就任

2020年7月

技術統括室長就任

2021年7月

CTO(Chief Technology Officer:最高技術責任者)就任

2022年1月

bravesoft卒業

池田の流儀

はじめに

bravesoftは、代表の菅澤を始めとしてこれまでの社員紹介で紹介した清田や青木のような、少し“特異“な経歴の社員が多いが、本日紹介する池田は正真正銘の“王道”尚且つ“エリートコース”を歩んだ社員である。県立の進学校から法政大学に進学してプログラミングを学び、大学卒業後はアメリカの大学院に留学して英語を習得し、そのまま外資系大手企業の日本マイクロソフトに入社。入社後は順当に出世街道に乗り、誰もが羨む順当なキャリアを手に入れた。

そのような輝かしい経歴・スキルを持つ池田が何故、これまでのキャリアを全て放り去り、知名度が圧倒的に低く、市場規模も遥かに小さい、一介のベンチャー企業であるbravesoftに転身したのか?その決断に際し、どのような覚悟と志があったのか?

これまでの経歴を紐解き、そのような決断に至った「池田の流儀」を今回は紹介したい。

池田は誰でも丁寧に敬語で話す。礼節を重んじるビジネスマンである証左である。

好きだったあの子と同じ高校に行きたくて猛勉強

1981年11月、千葉県・柏市で池田は生を受けた。家族構成は大手メーカーで働く父親、専業主婦の母親、4つ上の兄と暮らす4人家族。父親は仕事が忙しく、家に帰宅するのは毎日夜遅く。平日はほとんど家にいた記憶はなく、土日にしか遊んでもらった記憶が無いとの事であるが、それ以外は何不自由ない恵まれた家庭で池田少年は成長した。

幼稚園入学当初は人見知りをして、園まで送ってくれた母親が帰る時に泣いて母親を困らせたこともあったが、すぐに環境に慣れ、以降は楽しく幼稚園を過ごした。当時は運動が好きな少年だった。

小学校は柏第七小学校へ進学。そろばん教室に通い、友達とゲームをやって楽しんでいたが、当時池田少年が夢中になったのは“野球”。通っていた小学校には野球部こそ無かったものの、クラスの友達と毎日のように日が暮れるまで野球を楽しんでいた。

それ以外の学校活動でもリレーの選手に選ばれたり、クラス対抗の縄跳び大会で活躍したり、運動が得意なクラスの中心的存在だった。

地元の柏第三中学校に入学し、小学校時代から憧れていた念願の野球部に入部。

とは言うものの友達との野球経験しかなく、入学序盤は1年生の頃は球拾い。顧問の先生も厳しくよく怒られたが、それでも念願の野球部に入れた事は楽しかった。そして徐々に実力をつけた池田は中学3年生の頃は二塁手として先発の座を勝ち取った。当時の中学校は決して強い学校では無く結果を残すことこそできなかったが、野球に明け暮れた楽しい中学校生活だった。

そして高校受験を目前に塾にも通うようになったが、その塾を選んだ理由は明快。

「当時好きだった子がその塾に通っていたので、私もそこに通う事にしたんです(笑)そしてその子が進学希望していた高校を知り、じゃあ自分もそこに行こうと勉強しましたね…ストーカーみたいですが(笑)」

そして、そのモチベーションがうまく作動したのか(?)受験に成功し、地域の進学校である県立柏高校に合格。

残念だからその子は不合格となり、一緒に通学する夢は叶わなかったが…それでも充実した高校生活を楽しんだ。

高校でも野球部に入部したが、当時の野球部の雰囲気が緩く、中学時代の厳しくも充実した野球部とのギャップに悩み、半年間は続けたが退部し、新たに弓道部に入部。

“精神統一”が必要とされ、集中して的に当てる弓道の魅力に池田は取り憑かれ、朝も昼も弓道に没頭し、3年生の頃には副部長にも就任した。

また、高校3年生の頃から受験勉強を開始。体育祭がある日も予備校で勉強して当時の担任にこっ酷く怒られたのも良い思い出。そうして必死で勉強した甲斐もあり、念願叶って志望の法政大学に合格。

ちなみに高校3年生の頃は理系のクラスではあったが、プログラミングに関しては未勉強。それでもこれからはコンピューターの時代になると予見し、その中で法政大学に新設される情報科学部はプログラミングを学べることは勿論、海外からの講師などを招聘するなど魅力を感じる学びの場であったので志望度は高まり、実際に合格できた際は心から喜んだ。

そして2000年4月に法政大学のキャンバスに入学し、人生を大きく左右する事となる男との出会いが待っていた。

アルバイトで大学の仲間とプログラミングを行い、理想の実現へ

進学した法政大学 情報科学部 コンピューター科は「コンピューター」に興味がある個性的なメンバーが多く揃っていた。そうして分けられた当時のクラスメイトの1人に、とにかく行動力があり、バイタリティーがあり、自分が一度やりたいと決めた事は決して譲らない頑固さを持ち、とは言え責任感を持ち最後までやり抜く姿が何故か憎めない…そんな不思議な魅力を持った男がいた。

その男こそがbravesoft代表取締役・菅澤英司であり、池田と菅澤は20年前から「えーちゃん」「すみやす」と呼び合うクラスメイトであったのである。

池田と菅澤は行動を共にする機会も多く、2月6日(風呂の日)にはみんなで車を借りて温泉に行くなど、大学生らしい遊びも楽しんだ(尚、菅澤は当時から“雨男”であったとか‥)

そうした仲間たちと大学生活でプログラミングを行い、当時はJavaなどの言語を中心に習得し、開発にどんどんのめり込んでいった。アルバイトでもそのようなプログラミングのできるアルバイトをクラスメイトと一緒に行い、当時一世を風靡したdocomoの携帯電話“i-mode“のアプリ、“iアプリ”を作成するアルバイトは楽しかった。

一方その頃、菅澤はイタリアンレストランでワインを注ぐアルバイトをしていたそうで、そうした池田がプログラミングのアルバイトをしているのをしているのを知り「こいつ俺より進んでるな!」と思ったと当時を懐かしそうに振り返った。

そうして大学3年生の頃、上記とは別の会社にて、またもクラスメイトとWEBサイトやiアプリを作るアルバイトを行い、その際には菅澤も一緒にそこで働いた。

そこではWEBサイトの制作におけるPHPの開発など幅広く行ったが、それと同時に制作していたiアプリが大ヒット。菅澤もよくインタビューや取材の際に、この頃の“大学時代に作ったアプリが毎月1,000万円を売り上げるヒットになった”と言うエピソードを多く語るが、そのアプリは池田も一緒に作ったものであった。ましてやそのアプリはほとんどがアルバイトのメンバーのみで制作したとの事であり、「若くても自分達の力でこれだけの事ができる」というプログラミング、コンピューターの世界の楽しさを知り、「この先もこの世界でメシを食って行こう」と、狭く薄暗いアルバイト先のオフィスの一室で、菅澤と池田は胸を高鳴らせ、そう誓い合った。

尚、その当時の記録を菅澤はこのように振り返る。

「よく一緒に泊まり込みで開発していた時の話だと、すみやす(池田)は座ったままパソコンの上に寝ちゃって、おきたら『っっっっっっっっ』と無限に押されていて目が覚めて大慌てしてた話だったり、眠さの限界を超えると酔っ払いみたいになって訳のわからないテンションになって手に負えなくなったりした話とか、色々ある(笑)当時、なんだかんだで一番ソースを書いていたのはすみやすだったんじゃないかな」

そのような厳しくも楽しかった成功体験を元に、菅澤は「起業」を志し、大学卒業後にこのアルバイトをしていたクラスメイト数人とベンチャー企業を立ち上げる事となるが、池田はその立ち上げには加わらなかった。そもそも、そこまで熱心に誘われもしなかったとの事であり、その理由を尋ねてみた所、明快な答えが返ってきた。

「元々大学卒業後に海外留学したいと思っていたんです。社長もそれを知ってたのであまり誘って来なかったですね」

池田が大学生活を過ごしていた当時、やはりIT業界の中心はアメリカにあった。そうした背景より池田はコンピューターの世界に身を置く以上、英語は絶対に話せておく必要があると常々より思っており、海外の大学院に行きたいと考えていた。そんな矢先に懇意にして頂いていた大学の教授よりそのような海外留学の話を頂き、“是非行かせて欲しい"と志願し、推薦を貰える運びとなった。そのような海外留学に関して両親は反対しなかったのかを尋ねてみた所、このような答えが返ってきた。

「実は高校卒業のタイミングでも“大学は海外に留学したい“と親に相談した事があるんです。ただ、その頃はそこまでの理想も信念もあった訳でも無いので親には“中途半端な考えだったら行くな!”と怒られ…猛反対されたんです。ただ、大学時代にプログラミングを勉強し、その上で改めて“行かせて欲しい”という相談をした時には、“行ってこい”と応援してくれましたね」

両親は大学時代、プログラミングを頑張ってきた池田の姿を直接は見てはいないが、“留学をしたい“と大学入学前に相談した際と、卒業前に相談した際とでは説得力もそうだが、“目の輝き”が違ったのであろうと筆者は推察する。

そうして、大学4年間でプログラミングの奥深さ、楽しさ、厳しさを学び、この業界にこれから腰を据えて働いて行きたいと決意した菅澤と池田はそれぞれ別の進路を選んだ。

懐かしそうに大学時代のアルバイト時代のエピソードを話す池田。昨日の事のように当時の記憶が思い起こされる。

結局は“人”で選びましたね

そうして池田はカリフォルニア大学アーバイン校(University of California, Irvine)に2004年7月から入学する事となるが、入学に至るまでは苦難の連続だった。と言うのも当時の池田は英語・英会話がそこまで得意では無かったのである。

当時、上記大学に推薦するに辺りTOEFL(Test of English as a Foreign Language)の点数70%以上が前提条件であったが、池田は日本での大学期間中に上記を達成する事ができなかった。しかしながら教授の計らいで、“上記大学付属の語学学校の10週間プログラムで合格したら入学できる”という条件を与えて頂けたので、入学前に渡米してまずは語学を学ぶ必要があったが、アメリカの空港に着いた時からまず戸惑った。

「空港に来てくれた人が何を話しているか分からないし、寮に住んでいたんですが寮の人も同室のメンバーも何を話しているのかも分からなく…コミュニケーションの壁を感じましたね」

それでも前述の通り、10週間プログラムで合格しなければ入学できずに日本に帰国せざるを得ないという状況であり、就職活動もしていなかった池田は日本に帰った所で就職の宛もなく、正に背水の陣の状況。日本が恋しく、ホームシックにならなかったと言えば嘘になるが、応援して送り出してくれた両親の顔、そして大学卒業後に企業に属さずに起業の道を選び、切磋琢磨しているであろう菅澤の顔が浮かんだ。頑張らないわけには行かない。そう思った池田は10週間プログラムの7週目で条件をクリアし、語学学校のプログラムを卒業する。

「それまでは完璧な英語を話そうとしていたんですが、“そうしなくて良い”と思えて一つ壁を超える事ができましたね。簡単な単語でも良いから伝えられる事を意識して喋るようにすると、どんどん通じるようになり、会話が楽しくなって行き、抵抗が無くなりましたね」

そうして語学、言語の壁を超えた池田ではあったが、大学院での授業はやはり難しかった。とは言え日本での4年間でプログラミングを多く経験し、そうした分野の知識はあったので授業に取り残される事もなく、充実した学生生活を過ごした。順調に単位も取得し、渡米から1年半が経過した2005年の12月に卒業が確定した。

その上で卒業を前に、ボストンにて開催されるボストンキャリアフォーラムというバイリンガル学生や海外留学生を積極的に採用にしたい日本企業が集まる就職イベントに参加し、セミナーを受けていてその場で2社より内定を貰えた。そのうちの1社が“Windows”、“ビル・ゲイツ"で世界に名を轟かせるマイクロソフト社である。

「元々第一志望はORACLEだったんですが、マイクロソフトのセミナーを受けて、採用担当の方がとても魅力的な方で、“この人と一緒に働きたい”と思い、マイクロソフトに行く事を決めました。最後は人で選びましたね」

池田に聞いた所、もう1社内定を貰えた会社も誰もが知る外資系大手企業であり、第一志望のORACLEにしてみても超大手企業。どの企業に入社しても優秀な人材がいて、事業に魅力があり、充実したビジネスライフを送れると言う観点で考えると逆に選択が難しくなってしまうので、池田はシンプルに“どこで働くかではなく、誰と働くか”という、人に軸を置いた選択を選び、マイクロソフトでの就業を選択し、1年半過ごした思い出深いカリフォルニアを離れて日本に帰国した。

今でも社内で「英語といえば池田さん!」という共通理解があり、困ったときは池田に相談する社員も多い。

会社の力ではなく“自分の力”で勝負したい

そうして2006年1月より日本マイクロソフトでの勤務が始まった。

新卒採用ではあったが研修などもなく即実践。まずは対企業向けの製品サポートを行うサポートエンジニアとして、マイクロソフト製品を導入している企業の製品トラブルなどのトラブルシュートを行った。製品・サービスの開発はアメリカのマイクロソフト本社で行ってはいたものの、基本的には日本での完結が求められていたので、調査・デバッグ・開発なども行う事が池田に課せられた仕事内容だった。

今でこそ“slack“、“chatwork”、“backlog”などのコミュニケーションツールが多数存在するが、池田が就職した2006年当時はまだまでメールがビジネスの主体であり、メールシステムが止まるとビジネスが止まってしまう。マイクロソフトも“Outlook”、“Exchange Server”というサービスを提供していたので、そこでの不具合などでビジネスを止める訳にも行かず、責任は重大であったが、そのようなビッグプロジェクトを優秀な同僚、尊敬できる同僚と共に対処していて顧客満足度を上げていく、そのような仕事は魅力があり、楽しかった。

この時に顧客満足度を高める為に培ったコミュニケーション・折衝に関しては未だに活きていると池田は語る。

そうしてサポートエンジニアからシニアエンジニアとなり、チームリーダーとなり、気づけばあっという間に入社してから10年の歳月が経過していた。

次の役職に行ける機会も見えてきて、順風満帆に仕事を行っていた池田ではあったが、ふとしたタイミングである思いが萌芽した。それは大学時代の友人である菅澤の結婚式が切っ掛けであったかも知れないと池田は述懐する。

結婚式にて紋付袴姿の久々に再会した菅澤は活き活きとしていた。慣れない“経営”が大変そうではあるが、それでもものづくりを追求する菅澤の目はギラギラしており、10数年前の大学生時代の記憶を思い起こさせ、池田の中で「新しい事をやりたい」「ものづくりがしたい」というあの頃の思いが再燃した。

そして池田は日本マイクロソフトを離れ、ネクストステージに向かう事を決意した。34歳の頃であった。

「辞めると言った時にほとんどの人に反対されましたね(苦笑)」

周りの人達の反対は当然であろう。誰もが知るマイクロソフトのような大手企業に入社できる人間はほんの一握り。入社したくてもできない人間が何人もいるのに、入社後順調に出世街道を歩んでいるにも関わらず、自らその道を外れ、これまでの10年間のキャリアパスを捨てる事に対して多くの人は池田を慮り、池田の意見に反対もしたが、池田の中では確固たる信念があった。

「マイクロソフトには10年間それなりに恩返しができたし、やりたい事をやり切れたと思っています。その中で自分がやってきた仕事はあくまで“マイクロソフト“という看板があっての仕事なので、会社の力ではなく自分の力で勝負したいと思ったんです。そこで結果を出せず、稼がなければ”自分に力が無かっただけなんだな”と思いますし、自分の責任かと思いまして」

その池田の意見を少なからず賛同してくれる人もいて、その少数派の人達の意見が背中を押し、池田は転職を決意するが、その際bravesoftで働くという選択肢は全く考えていなかった。

そんな最中に菅澤と会う機会があり「一緒に働かないか?」と誘われた。学生時代に一緒にアルバイトをした間柄ではあるが、当時の菅澤は代表取締役社長。友達が上司になるという“やりずらさ“が真っ先に浮かばなかったと言えば嘘になるが、マイクロソフトに入社を決めた際のように、”重要なのは誰と働くか”と考えた池田は、bravesoft社員と会う事にして、そこで働くかを決めたいと思った。

「その時話したのは星さん(星取締役)、西村さん(現 brave studio 西村代表取締役)ですね。そこで色々と話をさせて貰い、魅力を感じて、“ここで働いてみよう"と決めました」

10年ぶりの“ものづくり”

そうして2016年5月に池田はbravesoftに入社する。

これまではマイクロソフトが作った製品のサポートがメインの業務だったので、アプリ開発・プロジェクト進行などは一切やった事がなかったが、やりながら学び、聞きながら覚えて、序盤は大変だったが、クライアントの求める機能や求める要件を一緒に考えて、共にサービスを作り上げて行く“ものづくり”を大学時代ぶりに携われることは新鮮で楽しかった。

そうして任されたプロジェクトを進行して、徐々に業務にも慣れていった入社2ヶ月後、全社横断するインフラチームの責任者に就任する。当時の記憶を池田はこのように述懐する。

「割とすぐに裁量を与えて頂けたので、自分で決断して進めて行く事が難しかったですね。何事においても、“確認する必要があるのか““無いのか”に戸惑ったり…考え方を変えるのが大変でした」

そうして任せられたインフラチームのリーダー業務を行いつつ、受託開発部門のプロジェクトリーダーとして複数のプロジェクトを任せられ、入社半年後には受託開発チームのリーダーも任せられた。

そんな池田の入社当時の事を菅澤はこのように評する。

「まずは経験ゼロの状態から大規模案件に入ってもらったんだけど、そこでも与えられた仕事をこなすだけではなく、自分からソースコードを見て改善点を指摘したり、自分で考えて動けていて感心したかな。大手は何でも周りがやってくれるので、“ひょっとしたらあまり成長していないかな“とも思ったんだけど全然そんなことは無く、やっぱり“やるやつはしっかりやるんだな”と思った」

そこからも順調にプロジェクトを進行し、入社して1年が経過した2017年7月のタイミングで執行役員に就任し、2018年より受託開発部門の事業部長に就任。そのスピード出世に異論を唱える人間は最早誰も居なかった。

そうして2018年より池田が事業部長となった受託開発部門は、前年比を大きく上回る売上を記録し、会社の利益に大きく寄与する結果を残した。

「確かに売上を出せて人数を増やすことも出来ましたが、これまでに受託の基盤を作ってくれた清田さん(=清田取締役)だったり、そうした人達から引き継げて結果を出せただけであり、100%自分の力だとは思っていませんし、もっとやれたという思いもあります」

そして2019年からは海外子会社(中国・ベトナム)を統括するグローバル戦略本部の統括責任者にも就任し、日本国内の開発のみならず海外のオフショア開発の管理、更には新拠点の検討など、多岐にわたる業務を同時並行で推進している。

今年2020年からは組織変動に伴い「グローバルグロースUNIT」の統括責任者に就任。国内向けのサービスのみならず、海外市場に目を向けた部門の責任者として、よりグローバルな視点で業務を行う池田は多忙であるが、それでも池田の目はキラキラしている。

「これまでは基盤を作ってくれた人達の仕事を引き継いだり、色々な人に助けられたり、自分が主体となって何かを新しく生み出すことはできませんでしたが、この組織変更においては自分が新しい価値を作って行く事となるので、挑戦が楽しみですね」

最後に

菅澤に今現在「池田にどのような事を何を期待しているか」と質問してみたら、このような回答が帰ってきた。

「もっと自分がやりたいことをわがままに通していって欲しいかな。その上で、アメリカや外資系の経験を活かし、世界で戦えるチームを作り上げて欲しい」

大学時代に居酒屋で酒を飲み、机を並べ講義を受け、アルバイト先のオフィスの一室で徹夜でプログラミングに勤しんだ間柄の池田と菅澤は、10年後に社長と社員という間柄になった。

設立から15年で会社は大きくなり、従業員もグループ全社で200人弱となり、取引社数や案件規模も大きくなったが、闘う舞台は広くなり、プロジェクト規模も比べ物にならない位に大きくなり、純粋に開発だけでは無く経営についても考えなければならない立場に2人はなったが、それでも2人の心の根底にあることは「ものづくりは楽しい」ということ。

2020年の田町でも、20年前の小金井でも、今でもそれは変わらない価値観として輝き続けており、別々の進路を歩んだ2人は“最強のものづくり集団”を目指して、再び同じ夢を描いている。

「高校時代から、とにかく目の前の事を全力でやり続けて、色々と道が開けたと思っています。面白いことも出来たし、良い人にも巡り逢えて本当に良かったと思っています。今後はそうして自分を助けてくれた良い人たちに恩返しをして行きたいですし、自分もそうした人にきっかけを与える人間になって行きたいですね。」

そして新たなるものづくりの追求に向けて、池田は挑戦心に溢れている。

記)

付記

インタビュー実施の後、bravesoft全社の技術を統括する「技術統括室」を立ち上げ、そこの室長として就任した池田は、その1年後の2021年7月よりCTOに就任し、bravesoftの技術最高責任者として自社プロダクトの技術品質向上、エンジニア採用などに尽力した後、惜しまれつつ2022年1月にbravesoftを勇退いたしました。

bravesoftで池田が残した功績は大きく、池田が残した基盤は今後も形を変えながらも残っていくと思われます。

5年半、ありがとうございました!

記)

池田の一冊

人を動かす|D・カーネギー

多くの人が知っている、古くからある名著と呼ばれている本です。

前職では特に技術面だけでなくコミュニケーション面も求められていたため、コミュニケーションを考える上でベースとなった本で、今でもたまに振り返りますが、参考になるところが多い本です。斬新なものではないかもしれないですが、基礎の振り返りとしてはとても参考になります。


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