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bravesoftの
プロフェッショナル社員

社員紹介vol.9 ホアン・ゴック・シン

ホアン・ゴック・シン 日本に憧れて、必死に勉強して来日して活躍する

シンの履歴書

日本に憧れて必死に勉強して来日して活躍するホアン・ゴック・シン

1989年11月

ベトナム中部タインホアで誕生

1995年9月

タインホア地区の小学校 入学

2000年9月

タインホア地区の中学校 入学

2003年9月

タインホア地区の高校 入学

2007年9月

ハノイ工科大学 入学

2012年9月

日商エレクトロニクスのベトナム拠点
NISSHO ELECTRONICS VIETNAM COMPANY LIMITED入社

2014年2月

来日し、日商エレクトロニクス本社にて勤務開始

2017年5月

同社退職

2017年6月

bravesoft入社、受託開発部門 ベトナムチームに配属となる

2018年7月

ベトナムチームのリーダーに就任

2019年1月

ベトナムメンバーを中心とする部門の事業部長就任

2021年1月

受託開発部門の組織改編に伴い、
日本メンバーとベトナムメンバーを中心とするNext Innovation事業部副部長就任

シンの流儀

はじめに

bravesoftにベトナム開発拠点「bravesoft vietnam(BSV)」が設立されたのは今から8年前の2013年に遡る。
その当時、国内エンジニア・プログラマーのリソースは枯渇しており、外注や業務委託に頼らざるを得ない状況であったが、それらの人件費や開発コストは高騰の一途を辿り、既に存在していた中国・成都以外に、新たな海外拠点の設立は急務であった。
そして紆余曲折を経て、bravesoft代表取締役CEO/CTOの菅澤英司が、次なる拠点として目を向けたのはベトナムであり、そうしてベトナムとのビジネスが発生して以降、BSV現地で働く社員、ベトナムとのやり取りを行うブリッジエンジニアとして活躍する社員、BSVに入社して日本に転籍した社員、そうした社員からのリファラル採用で入社した社員など…これまで多くのベトナム人社員がbravesoft本社でも活躍してきた。

本日紹介するホアン・ゴック・シン(以下シン)は、現在bravesoft本社で働くベトナムメンバーの中で、唯一のマネジメントを行うベトナム人社員であり、チームメンバーへの管理及び、プロジェクトの管理、更にはBSVとの調整業務などその業務範囲は多岐に渡り、とても外国籍とは思えない位、日本の価値観、bravesoftの価値観に順応し、会社を支えてくれている。
そんなシンが率いるベトナムメンバーは、皆口を揃えてシンを「厳しい人」と評するが、その後に「優しい人」とシンを評する。

そんなベトナムで生まれ育ったシンが何故日本で働く事を選択し、どのような思いを持って今こうして日本で働いているのか、そして将来の展望をどのように考えているのかを掘り下げた記録を紹介する。日本人の方ももちろん、ベトナム国籍の方にも是非読んで頂きたい。

おどけて笑うシン。優しい笑顔を持ちつつ仕事はキッチリしている。

クラス長で勉強は学年1位でしたが、女性にはあまりモテなかったですね(笑)

ベトナム北中部に位置し、夏季にはベトナム人観光客が多く押し寄せるサムソン・ビーチが有名なタインホア省。1989年11月にシンはこの地で生を受けた。

今でこそベトナムと言えばフォーや生春巻きのフード、更にはダナンなどのリゾートが連想され、観光スポットとしても人気の国でもあるが、ほんの50年前までは国家が南北ベトナムに分裂され、互いのイデオロギーを巡る戦争が行われていた事を忘れてはいけない。
タインホアも戦場となり、多くの空襲被害を受け、多くの悲しい犠牲が生まれた。そしてその戦争の惨禍は今日のタインホアにも残っており、枯葉剤被害を受けた人々が今尚後遺症に苦しんでいる。

シンの父親も軍人であり戦争を経験したが、戦争終結後は母親と一緒に農業を営んでいた。そんな両親の元、2人の姉と1人の弟の4人兄弟、6人家族でシンは生まれ育った。
戦争の影響もあり、当時のベトナムは裕福な国ではなかったが、シンは生活していく上では不自由ない環境で、高校を卒業するまでタインホアですくすくと育っていった。
ベトナムの子供達に人気の遊びは、なんと言ってもサッカー。シンも小さい頃から周りの友人と一緒に毎日、日が暮れるまでボールを蹴っていた。

小学校に入学してからも継続してサッカーに明け暮れていたが、その傍らでしっかりと勉強もしていた。得意な科目は数学で成績は学校で1番、クラス長も務める、そんな模範的な生後であり、周りの友人と比較しても、少し年上のような感覚でいた。

そんな生徒であれば日本ではクラスの人気者、女子からも大人気の存在になるが、当時をシンはこう振り返る。

「女性には全然モテませんでしたよ(笑)日本とは少し違うのかも知れませんね」

そうして中学校に入学し、最初の2年は勉強において誰にも負けたく無いという思いで必死に勉強したが、3年目を迎えた際に勉強を少しサボってしまった。

「Counter Strikeというゲームに熱中してしまって…成績が落ちてしまいました(笑)」

シンが中学生だった際にベトナム全土において、中学生を対象とした数学の大会があり、中学1〜2年生の頃は良い成果をあげていたが、3年目と4年目は満足いく結果を出すこともできず、成績も下り、先生にも心配された。
そこからはマズいと思い、そこから心を入れ替えて勉強するようになった。

高校に入学した際には、ゲームを我慢・自制できるようになった。そして精神的にも成長し、そうして小学校から引き続いて数学が好きだったシンは、ゆくゆくは数学の学者になりたいという思いで、勉強を繰り返していたが高校2年生の時に、シンの人生を左右する出来事が訪れた。

「日本やアメリカが参加していたロボコン(ロボットコンテスト)を見て、“ロボットを作りたい”という思いが生まれたんです。そこで、ロボットを作るために勉強したいと思い、一番その勉強ができるハノイ工科大学を目指しましたね」

ハノイ工科大学はベトナムに設立された最初の技術系総合大学であり、ベトナムで最もレベルが高く、最も入学するのが難しい大学と言われている。
そこを目指したシンは、その夢を志した日より猛勉強を開始する。
試験前の3ヶ月は、毎日10時間以上勉強して、念願叶いハノイ工科大学に合格。

そうして入学したハノイ工科大学はシンにとって学びの機会が多く、多くの出会いがあり、充実したキャンパスライフを送る事ができた、そんな夢のような環境であった。

色々な発見があった大学生活

タインホアからハノイは電車3時間くらいの距離であり、家から通学する事は難しかった為、シンは親元を離れて大学の寮に入寮し、新生活が始まった。ベトナム全土から優秀な学生が集まり、周りの友人から受ける刺激は新鮮であり、シンにとって新しい価値観を与えてくれる理想の環境であった。

尚、日本の大学と違い、ハノイ工科大学に入学した生徒は学部を選ぶことができず、学部は1年生の頃の結果で決まる制度になっている。元々シンは「ロボットを作りたい」という思いでハノイ工科大学に入学したが、ロボットを作りたい思いを持った優秀な学生は多く、対象の学部はかなり狭き門となっており、その道を諦めざるを得ない岐路に立っていた。

そんな矢先、当時のハノイ工科大学において行われていたプロジェクト「HEDSPI(ヘッドスピー)」と呼ばれる日本政府のODA(政府開発援助)において、日本語とITの両方を学べるプロジェクトの存在をシンは知る。
高校時代はOfficeに触れる位しかコンピュータに触れる機会は無かったが、やはりこれから世界で活躍するために学ぶべきはITであり、もっとこの分野で深く勉強したいという思いが芽生えた。
また、IT同様に日本にもシンは興味を抱いていた。

「高校時代、ロボコンで日本のロボットが紹介されていたのをきっかけに日本文化にも興味を持ちまして、アニメや漫画もよく見ていました。そこで興味を持ち、いつかは日本に行きたいと思うようになりましたね」

そうしてIT学部への試験を通過し、大学2年生からは日本語の勉強とITの勉強を始める大学生活を過ごした。
まずはITの基盤の知識、ネットワークの知識、PCの作り方・整備から、メモリはどういうものであるか、OSとはどういうものであるか…という基礎知識をしっかり1年間勉強し、そして3年生から設計、プログラミング、システム設計、DB設計などを行った。授業は難しかったが、新鮮で楽しい内容だった。
日本語の授業も同様に難しかったが、楽しい内容だった。

「ずっと日本語の勉強と、学部の専攻を両方やっていたんですけど、徐々に専攻の方が忙しくなって日本語の勉強が全然できなくなり…卒業する頃には日本語はほとんど忘れてましたね(笑)」

そんなジョークを言いながらも、その頃のシンは日本でITに関わる仕事をする事を自分の中でハッキリと決めており、大学卒業後の進路は数年後に日本で働ける事を前提に、日本に本社を持つ日商エレクトロニクスのベトナム拠点であるNISSHO ELECTRONICS VIETNAM COMPANY LIMITEDを選ぶ。

日本への思いを馳せて、シンの社会人生活が始まった。

前職時代に学んだ設計知識などは、今もシンの礎となっている

憧れの地・日本に到着した日は50年に1度の…

会社入社後は開発テスト、プログラミング、設計書の作成など、開発に関わる全般業務を経験した。
大学で学んだ知識を使える場面もあれば、大学時代では学べなかった実際の現場で初めて知る知識、どれもこれも新鮮で、とても充実した社会人生活をシンは送っていた。
そうした日々の中でも「日本で働きたい」という気持ちは消えない所か、日本に本社を構え、日本のカルチャーを持つその企業で働く事で、その思い・情熱は燃え続けていた。

そうして働いていたシンにとって、思っていたよりも早く日本に行く機会が訪れた。
入社して1年余り経過したタイミングであった。そうしてシンは日本に行く事を決意したが、両親・家族は特に反対もなく、シンのやりたい事を応援してくれた。

そうして2014年2月、シンが24歳の冬、シンは日本に初来日したが、その日は50年に一度の記録的な大雪が降った日だった。全ての電車が止まり、空港で長時間足止めをされて風邪を引いてしまった。
そしてなんとか会社の寮に付き、翌日いざ会社に行こうと中央線に乗ると、人身事故で電車が3時間止まった。初めての日本で、いきなり訪れた相次ぐ交通トラブル。不安が無かったというと嘘になるが、それでもシンはこれも貴重な経験とポジティブに捉え、日本での生活が始まった。
そんなシンは来日直後苦労した事をこう振り返る。

「日本に来た当初、大手企業の大きなプロジェクトを任されたので、そこは苦労しました。把握していない事がほとんどだったので、ミスも多くしてしまい、慣れるまで時間が掛かりましたね」

その苦労は業務内容の事であり、異文化による苦労などはほとんど無かったという。
日本食も抵抗なく、ホームシックにもならず、日本での生活に順応した。ただひとつだけ、カルチャーの違いによって来日直後に苦労したエピソードがある。

「通貨の単位に慣れなかったですね。ベトナムはドンという通貨なのですが、単位が全然違うので金銭感覚が麻痺して、すぐにお金がなくなってしまいました(笑)」

2021年2月現在の為替だと1円=219ドンであり、ベトナムでは基本的に貨幣は使わず、ほとんどのケースで紙幣を使用するが故に、そうした形で金銭感覚の錯覚を生み、ちょっとした失敗談もしたがそれも今や笑い話。

憧れの日本で、シンは仕事にも慣れ、休日は来日しているベトナム人のコミュニティーで色々な体験に触れ、充実した日本での生活を過ごした。
そして2017年にはシンの奥さんも日本に来日し、順風満帆の日々を送っていた。

そんなシンが「環境を変えよう」と思ったのは、同じく2017年。
当時の記憶をシンはこのように振り返る。

「日商は大手で仕事も安定していて、不満は無かったんです。ただ、ここにずっといても安定はしているけど、自分の中で新たなチャレンジがしたいという思いが生まれたんです」

ベトナム〜日本を含めて5年、1つの会社で働き、多くを学ぶ事ができた。中でもシステム開発における設計・運用に関してはかなり多くを学ぶ事ができたし、何よりも安定している企業であり、日々の生活に不満は無かった。

ただ、それでもシンは“挑戦”を求めた。

「元々、iPhoneが好きだったのもあって、アプリ業界にも興味を持っていましたし、ベトナムと仕事をしたかったので、ブリッジエンジニアの仕事にも興味があり…bravesoftをトゥーに紹介してもらったんです」

トゥーという人物について紹介する。
トゥーはシンと同じハノイ工科大学の同窓生で、共にIT学部で机を並べて、プログラミングや日本語を一緒に学んで競ったライバルであり、同じ日本に思いを馳せた親友であった。
そんなトゥーもシンと同じく、ベトナムから日本に来日しており、その当時トゥーはbravesoftでベトナム人社員を束ねるリーダー職を務めていた。
トゥーからbravesoftの色々な話を聞いて、シンの中でbravesoftへの興味が湧き上がり、まずは一度話を聞いてみようとbravesoftの門を叩いた。

面接では分析などのテストを行い、面接担当の池田に技術面・設計面に関して色々と細かく質問をされたのをまだ覚えている。
そして何よりも印象に残っているのはbravesoft代表取締役CEO/CTOの菅澤との面接。
面接の際に大きなビジョンを語る菅澤に魅力を感じ、シンプルにこう思った。

「この人と、この会社で一緒に仕事がしたい」

シンの思いは伝わり、採用が決定。
そうしてシンは2017年6月より、bravesoftの一員となった。

挑戦を続けること、それがシンの一番実現したい事であった

eventosでイベント業界を変えていく

そしてbravesoftでの勤務が始まった。前職時代はスーツを着た年配の社員が多く、そこまで雰囲気が明るい会社では無かったが、bravesoftは私服で、若いスタッフが多く、いつも笑顔が絶えず、雰囲気も明るい。そんな環境をシンは直ぐに気に入った。

それでも業務の進め方は前職と比較し、180度違った。

「前職はプロジェクトがスタートする際にしっかりと準備をしたんです。まずはドキュメントをしっかり作って、設計も半年くらいかけて行って…という流れでしたが、bravesoftは準備をする時間もなく、納期も短いのでスピード感が求められ、更には同時に複数の案件も始まり…最初は苦労しました」

これまでのシステム開発とアプリ開発という違い以上に、プロジェクトの進め方、特に求められるスピードが違った事に入社当初は戸惑ったが、それでも半年も過ぎるとそうした環境にも慣れた。この違いを楽しみ、順応するポジティブさが、シンの長所の1つである。

「ただ、この経験があって、自信がついてきましたね」

そうして業務にも慣れ、ブリッジエンジニア・システムエンジニアとして他の複数のプロジェクトにアサインされ、色々なプロジェクトを経験し、シンは受託開発部門のベトナムチームにおいて、トゥーの右腕として活躍したが、そんなシンに転機が訪れたのは2017年の年末だった。

シンを紹介したトゥーが、独立する為にbravesoftを卒業する事になったのだ。

「全社に発表される少し前にトゥーから話を聞いてたのもあり、そこまで自分の中ではインパクトはなかったんです。ただ、トゥーが抜ける事になって、その時自分が思ったのは、“自分はこれまで自分の業務しか見ていなかったな”という点でした」

これまではトゥーが全体の案件を管理していた為、シンは自分のプロジェクトにだけ全力投球していれば良かったが、これまで管理していた人間がいなくなる事の影響力を感じた。
そして、このタイミングで初めて、シンの働く上での選択肢に“マネジメント”を行う意識が芽生え、これからは自分がやらなければならないと考え、シンはベトナムメンバーのリーダーになる事を目指した。

そうしてシンは日々の業務の中で、少しずつマネジメントを学んでいった。まずは視野を広げて、自分が担当するプロジェクトだけではなくチーム・組織について考えること、自分以外のスタッフに対するモチベーションアップに向けた意識付け、これまではあまり参加しなかったプロジェクト以外のMTGでの発言や思案など、これまで行っていなかった業務を行う中で、シンも少しずつ成長する事ができて、2018年からはベトナムチームのリーダーを任せられた。

職責を与えられた事で、自分自身の考え方・マインドをさらに高める事ができて、シンはより成長する事ができた。
チーム内でどうすればメンバーのモチベーションを上げられるかを第一に考え、その中でビジネスマインドを常に持ち、俯瞰の立場で物事を考えるようになった。
当初は苦労したが、その中でもメンバーの成長を実感し、自分の中でも成果を感じた。

そうしてベトナムチームのリーダー、副部長、部長と順当にステップを登り、組織変更が行われた2021年からは日本・ベトナムの開発メンバーを中心とする新事業部が誕生し、その事業部の副部長にシンが任命された。

「今はチームが本当に強くなったと思ってます。ですが、まだまだやることはあります。次にやらなければならないのは、オフショア拠点の品質管理が課題ですね」

10年後・20年後のベトナムを変えていくために

ベトナムに生まれて日本に憧れ、勉強を続け、思い叶って来日し、順当に日本で成長を続けるシンは、将来をこのように考えている。

「将来、いつかはベトナムに帰って仕事をしたいと思っています。ただ子供がまだ小さいので、子供が大きくなるまでは日本にいようと思ってますし、ベトナムに帰っても日本とは仕事をし続けたいですね」

そして、シンのようにベトナムで生まれたベトナム人が日本で働き、活躍する為には何が必要か、シンに聞いたところ、3つ大事な事があるという回答が返ってきた。

「1つ目は“日本語の勉強”ですね。これに尽きると思います。日本語が上達すればその分活躍できますので、漫画やアニメで学ぶのも良いですが、日本人とコミュニケーションを取ることが一番上達への近道なので、そうした機会があれば有効に使って欲しいですね」

「そして2つ目が“何の為に日本に行きたいのか?”を常に意識する事だと思ってます。行く前は日本語の勉強に疲れたりするでしょうし、来てからも文化の違いなどでストレスに感じる事もあると思いますが、そういう時は”何の為に日本に行きたいのか?””何の為に日本に来たのか?”を思い出して、初心に戻って頑張って欲しいと思います」

「そして最後の3つ目は、エンジニアに限った話になってしまいますが、エンジニアは学ぶ事が大事です。挑戦と同じ意味ですが、毎日新しい事を学べる事がすごく大事なので、それを意識すればきっと活躍できる筈です」

そして、シン自身が今やりたいことを「会社目線」「チーム目線」「個人目線」で聞いたが、全ての答えが一貫して「チームが成長すること」から派生した内容であった。
会社を盛り上げる為にはチームの成長が必要で、チームにおいては言わずもがな、そして個人としてはいかにチームメンバーの育成ができるかに尽きるとの返答であり、プレイヤーではなく完全にマネージャーの視座で物事を考えていた。

シンがマネジメントを考えるようになったのは前任の担当がいなくなった偶発的な理由であったが、結果としてそれは必然であり、ベトナム国籍でありながら、誰よりも日本を愛する愛社精神、大和魂を持った男・ホアン・ゴック・シン。

最後に「ベトナムを今後どうしていきたいか」と言う、少し大きなテーマの質問をシンに投げかけてみたが、このような回答をもらったので、これを結びのコメントとしたい。

「ベトナムの教育を改善したいと思っています。ベトナムの若者は選択肢が少なく、“こうやるべき”という事をあまり意識せず、勉強する事にも意義を持てずにいるんです。だからこそ、夢を持って欲しいと思ってますし、その夢の実現に向けて、自分も色々と貢献していきたいですね」

ベトナムと言う国を変えていく、シンの挑戦はまだまだ終わらない!

記)

シンの一冊

The Clean Coder

「The Clean Coder」を紹介したいと思います。
この本で、Uncle Bob(世の中の有名なエンジニア)より、開発者として、デベロッパーのマインドやプレッシャーに戦う方法や挑戦などについて紹介してくれます。それぞれの側に対して、著者に自分の経験や体験も詳しく教えてもらいます。

「The Clean Coder」を読む時に、あなたは自分のキャリアの道や成長道などもイメージできるかと思います。
また自分の勉強できるところもちょっと紹介したいです

- 上級なデベロッパーになるために、自分の作ったものに対する責任が大事
- 「Say No」方法
- 技術が大切だけど、製品の価値はもっと大切
- シェアされることよりシェアすることが大切 - 毎日の練習することが大切

詳しくは本を読んだ方が良いかと思うのでもし機会があれば、本を買って読んでみてください。


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