社員紹介 Vol.14 井上 雄輔 - bravesoft

bravesoftの
プロフェッショナル社員

社員紹介 Vol.14 井上 雄輔

井上の履歴書

入社して8年、ひたすらデザイン一本!
  • 1987年7月 香川県にて誕生し、生後まもなく東京へ移住
  • 1993年4月 第三日野小学校入学
  • 2000年4月 日大二中学校入学
  • 2003年3月 日大第二高校入学
  • 2006年4月 日本大学 入学
  • 2010年4月 HAL東京入学
  • 2012年4月 メーカーにて就業開始
  • 2012年7月 メーカーを退職し、デザイナー友人とフリーランス活動を開始
  • 2014年8月 bravesoftにデザイナー職で入社 以降デザイナーとして100本以上のデザインを制作
  • 2019年7月 Good Design賞受賞

井上の流儀

はじめに

ベンチャー企業であるbravesoftは独立やステップアップなどで人の移り変わりが激しく、在籍3年で中堅、在籍5年で重鎮とも数えられ、在籍5年以上在籍する社員は全体の5%にも満たず、稀有な存在となってしまっている。

今回プロフェッショナル社員として紹介する井上は、今年2021年の8月で在籍8年目を迎えた。
会社がまだまだ小さい頃から入社し、会社が軌道に乗り大きくなっていく中で、首尾一貫“デザイナー”として会社の成長をクリエイトの領域で支えてきた。

そんな井上は会社において大ベテランであるにも関わらず、腰が低く、誰でも謙虚に接する。
頼まれごとにも柔軟に対応し、無理難題も気軽に笑顔を絶やさずに対応する事より、「優しい人」「良い人」と周りは評する。

しかしながら、そんな井上が唯一強固なこだわりを持ち、意固地になる点はただ一つ、“デザイン”に対して。
周りがそのデザインを認めても、自分が認めなければもっと良い内容を考え、周りが賞賛しても自分が納得行くデザインでなければ手放しに喜べない性分。

デザインを愛するが故に、デザインに対しては妥協しない。
デザインに対してストイックでありプロフェッショナル、そんな最高のデザインを求める求道者である井上を今回は紹介させて頂く。

これまでにbravesoftの100本を超えるUIデザインをデザインしてきた

ジャケ買いした“天才バカボン”のCDがデザイナーを目指すきっかけに

1987年7月、香川県にて井上は生を受けた。
家族構成は会社経営者の父親と、専業主婦の母親、5歳年上の姉との4人であり、香川県で会社を経営していた父親が東京に支社を新設する事より、生後まもない0歳の頃に東京都品川区に移住した。
その後父は香川県に単身赴任となり、年に数回しか父親と会えない生活で寂しい思いもしたが、幼少期は水泳や体操教室などに通い、不自由なく井上は成長した。
幼少期は目立ちたがり屋で、人に注目される事が好きな子供だった。

小学校は地元の第三日野小学校に入学。
水泳や野球、サッカーなどスポーツに明け暮れていた一方、勉強もクラスで一番の成績の人気者だった。
そしてこの頃、美術の授業で描いた絵が展覧会に出展されたり、図工での授業で粘土で作った焼物が下の学年の「見本」となったり、デザイナーとしての萌芽がこの頃から始まっていた。
当時からものづくりが好きであり、得意とも自覚していた。

中学校は荻窪の中高一貫の日大第二中学校に進学し、部活動はテニスを始めた。
結果として中高6年間テニスに熱中し、都大会にも出場した。

そしてこの頃、後のデザイナーとしての進路に影響した印象的なエピソードを覚えている。

「RIP SLYMEの“天才バカボン“のイラストがジャケットだったCDを見て“ジャケ買い”したんですけど、“CDをジャケットだけで買わせるインパクトは凄いな”と思って、うっすらと“将来はこういうのを作る仕事をしてみたい”って思った記憶があります」

そうして高校はエスカレーター式に内部の日大第二高校に進学。
この頃も中学校同様、テニスに明け暮れる学園生活だったが、それ以外に高校時代の思い出に深く残っているのは学園祭のエピソード。

「門にウェルカムボードを作ったり、横断幕を描いたりする作業があったんです。それは生徒会の仕事だったんですけど、勝手に入り浸って作ってましたね(笑)そういうみんなで何かを作る、学園祭のノリが凄く好きなんです」

人々を惹きつけるデザインを作ったり、みんなで何かを作る事に魅力を感じ、高校を卒業する際には、自分のやりたい事はデザイナーであると考え、“美大に行きたい”と親に相談したが、親は反対した。

「“美大に行っても食いっぱぐれる可能性がある”と言われたので、そのまま付属の日大に進学する事にしました。ただ、諦められなかったので、大学でバイトしてお金を貯めて美大に行こうと思ってました」

親に反対されても、デザインへの思いは消えず、むしろ自分の進路は自分で切り開こうという発奮材料となった。

デザイナーを目指した会社選びで“失敗”

そうして2006年、日本大学 経済学科に井上は進学したが、大学時代はただアルバイトに明け暮れたのみだったと述懐する。

「週6で蕎麦屋でバイトしていましたね(笑)もう、大学時代はバイトしていた思い出しかないです(笑)」

大学時代は経済学部という事もありデザインの授業は無かったので、アルバイトの合間に独学でデザインのインプットなどを行い、夢を叶える為の努力を続けていた。
脇目も振らずほぼ毎日アルバイトに勤しんだ甲斐もあり、大学4年間でデザイナーへの進路を切り開く、多くの蓄えを得る事ができた。
そして大学卒業を迎える時期に、美大を含めて色々な進路を検討した際に、1つのワクワクする選択肢が井上に訪れた。

「軽い気持ちで“HAL東京”のオープンキャンバスに参加したんですけど、ちょうど開校2年目で勢いもあり、自分がその頃興味があったゲーム系をやっていたことと、学校の先生が実際に現場で働いている方々だった事に魅力を感じて、そこに行くことにしました」

そうして2010年4月より、HAL東京に入学して本格的にデザインを始める事となった。
入学後半年はCGを学び、残りの1年半で動画、紙、WEB、静止画、グラフィックなど幅広いデザインを学んだ。
更にはクラス委員長も務めており、朝一番に学校に行って授業の点呼を取り、夜の11時くらいに家に帰る生活を送っていた。故に、アルバイトは土日しか入る事ができなかったが、大学時代にアルバイトで蓄えた“貯金”があった為に、平日は朝から夜まで真剣にデザインに向き合う事ができた。
その体験は楽しく、全く苦に思わなかった。
毎日が学園祭の前日のようで、日々のものづくりにワクワクしていた。

そうしてそんなワクワクするデザインを仕事として実現すべく、就職活動で井上が重視したのは「デザインができること」、そして「これから伸びそうな企業で働くこと」の2軸であった。
そんな最中に就職活動で巡り合った企業は勢いがあり、商品や会社全般のデザインを行う事ができると面接で話を聞き、期待を馳せて2012年4月にメーカーに就職したが、そこで待っていたのは苦難の日々だった。

「ほとんどデザインの仕事はなく、営業ばっかりやってました(笑)深夜まで接待で飲んで、その後また8時から出勤して…という生活だったので、3ヶ月で退職しました(笑)」

“デザインをしたい”という夢を持ち、同年代の友人より少し遠回りして就職したにも関わらず、デザインができないのであれば井上にとって退職は必然であった。

そしてこの頃、専門学校時代の同期が、同じような不遇で会社を退職していた事を聞きつけ、その仲間達でフリーランスのデザイナーが集まり、チームを組んで仕事をする事にした。

幸いにもデザインの業務はランサーズなど、クラウドソーシングに舞い込んでいる仕事が山ほどあった。
皮肉にも3ヶ月勤めた会社で営業スキルも身についていたので、クライアントとやり取りを行なって自分で仕事を取る事もでき、早々にデザインコンペで賞も最優秀賞も受賞して順風満帆。
時として受けきれない程の仕事を受けてしまう事もあったが、そんな時は徹夜してデザイン業務を行う。
多忙ながらデザインに向き合う仕事は楽しかった。

そうして約2年間、フリーランスのデザインに従事し、デザインで生活を送る事ができるようにはなっていたが、デザインを仕事にする事に慣れていくうちに、ある疑念を抱くようになった。

フリーランス時代のデザインの仕事は基本的に、“社内にデザイナーがいない企業”からの依頼が多かったので、デザインを分からない人がジャッジを行う為、決済も通しやすく、自分が作りたいようにデザインを作る事ができたが、果たして自分はクライアントが求める本当のデザインができているのだろうか?
そのような事を日々考えるようになった。

また、このようなエピソードもあった。
クライアントから決済を貰ったデザインが、開発を経て実際に仕上がってプロダクトを確認した際、自分が作ったデザインと全然違うプロダクトが最終形となっていた。

“自分はクライアントが求めるデザインを作れているのか?“
“独りよがりのデザインしか作れていないのではないか?”
“自分のデザインでは開発に適していないのか?”

疑念は肥大化し、フラストレーションもまた肥大化した。
結果、井上はフリーランスの仕事に見切りをつけ、企業への就職を考えるようになった。

「デザインができる仕事であるのは大前提ですが、デザインと開発を同時に行なっている会社で働こうと思いましたね。それであればどこでも良かったです」

そうして就職活動を始めた井上は、まずはgoogle検索で「アプリ 開発会社」で検索し、偶然1番上に出てきた企業「bravesoft」のとりあえず話を聞いてみようと、ポートフォリオを携えて田町に向かった。

色々と経験したが過去の経験は全て財産となっている

Good Design賞を受賞しても感じなかった手応え

気持ちとしては“面談”のつもりで向かったが、蓋を開けてみるとそれは面談ではなく歴とした一次面接であり、当時の部長と4ヶ月先輩の会社唯一のデザイナー社員がいた。
その頃何を話したかはあまり覚えていない。ただ、そのデザイナーが真剣にポートフォリオを見てくれていた事は覚えている。
そのデザイナー社員こそが現bravesoft取締役CDO(Chief Design Officer)、井上が以降の人生において師事する事となった青木であった。

青木は、当時の面接の様子をこのように振り返る。

「最初の記憶は、書類選考でのポートフォリオ。アプリのUIデザインだけでなく、名刺やロゴなど幅広く載っていて、“デザインが好きな人”という印象を持ちました。その印象は入社時も今も変わらずで、当時を振り返ると、インタラクションやトランジションなどアニメーションに興味を示していたりと、新しいことへの挑戦にワクワクしていた様子はよく覚えています」

そうして青木の推薦もあり、一次選考を通過し、最終選考はbravesoft代表取締役社長の菅澤英司。そこでの面接内容を井上はこう振り返る。

「社長と話すまでは、“デザイナーがイメジさん(青木)しかいない会社で大丈夫かな?“とも思っていましたが、社長から“色々とやっている”、“色々な事ができる”と言う話を聞いて魅力を感じましたね。とりあえずは入社してみようと」

そして直感を信じ、2014年8月、井上はbravesoftに入社し、まずは青木のサポート業務から始めた。
当時のbravesoftは業務量とリソースのバランスが合っておらず、サポートと言えどやる事は山積みであり、井上が初日から家に帰ったのは24時で、入社して1週間以内に2度会社に泊まった。

この頃のbravesoftは開発会社からの脱却を目指しつつある発展途上の状況であり、まだ“デザイナー”とのやり取りを模索中だったように当時の井上は感じた。

「当時は仕事を“どうデザイナーに渡したらいいかが分からない”状況でした。やる事が整理されていない状態なので、まずはそこを1から考えて、それを整理した上でデザインに入ると言う状況でしたね。今思い起こせばかなり非効率でしたね(笑)」

そのような進め方に辟易したが、社会人1社目の営業経験や、フリーランスの頃の連続徹夜の経験が井上を強くしており、耐性があった井上にとって業務量が多い事はそこまで苦では無かった。
苦労は別の所にあった。

入社後の井上が一番最初にデザインした案件は、先日7周年を迎え120万人にダウンロードして頂いているアプリ「HONNE-ホンネ-」のデザインであった。アプリデザインの経験もフリーランス時代に経験していたが、これまで行ってきたデザインとは勝手が違った。
HONNEは歴とした自社事業であり、導線ひとつの見せ方・置き方もマネタイズに大きく起因する為、そうした事業を成立させる為の視点でのUI/UXを考える事はこれまでのデザイナー経歴で経験がなく、この点は苦労した。

ただ、これが自分の望んだ壁であり、これを乗り越えれば自分は更にデザイナーとして上を目指す事ができる。
井上は改めて、その苦労に向き合う事を決めた。

井上が入社して以降、デザイナー社員はなかなか定着せず、青木と井上の2人体制が多く続いた。
徐々に青木が更なる上流工程や、管理業務などを行うようになり、井上がデザイナーとして求められる業務は増え、この時期はデザインを作っては納品を繰り返しており、何よりスピードが求められていた。
その中で自分の考えやエッセンスをデザインで実現したかったが、当時の井上の能力ではそれを行う事ができず、歯痒い思いを抱えていた。

「“ただデザインするだけではなく、企画から入り込んでデザインの案をすること”が当時の自分の理想でしたが、それはずっと出来ませんでした。ですので、Good Design賞を受賞した時も手応えは感じませんでしたね」

bravesoftは株式会社マイナビ様より開発の依頼を頂いた農業マッチングアプリ“農mers“を、マイナビ様と共同名義でエントリーさせて頂き、2019年にGood Design賞を受賞することができた。そのデザインは井上が担当した。
Good Design賞はデザイナーにとって最高の名誉であり、もちろん受賞に対する達成感はあったが、井上は“先方の提案に応じる形でデザインした結果”と、真の意味で自分がGood Design賞を受賞した訳ではないと、心から喜ぶ事が出来なかった。

またこの頃、青木はbravesoftのCDO(Chief Design Officer)に就任したが、そんな形で釈然とはしていなかったこの時期の井上の印象を青木はこう語る。

「入社後2〜3年間はデザイナーも少なく、プロジェクトを共にしていたので気づけていなかったけど、徐々にデザイナーも増え、別々のプロジェクトを担当していた頃に、クライアントから井上さんの評判を聞いたり、しっかりと仕上がったクリエイティブを見たときに、彼の成長や自信が伝わってきて心強く感じましたね」

デザイナーとして上司からもクライアントにも評価されているにも関わらず、井上が理想とするデザインは行えておらず、自分の理想とするデザイナー像にはまだ程遠いと感じていた。

デザイナーにとって最大の名誉であるGood Design賞受賞も、自分の納得のいく仕上がりではないので納得感は薄い

デザインが好きでたまらない人と共に「ものづくり」の実現を

入社以降ひたすらデザイン道を歩み、100本を越えるデザインを経験しても満たされない。
そんな自分に厳しい井上ではあったが、最近ようやく“手応え”を感じつつある。

「今、ベネッセコーポレーション様の“Study Cast”と言うアプリのデザイナーとしてグロースを担当しているのですが、色々と企画を出しながら進められていて、ようやく自分のやりたい事ができています」

元々、デザインだけの業務から脱却したい思いでbravesoftに入社した。
bravesoftで開発を意識したデザインをできるようになったが、作って終わりのケースが多く、PDCAを回すサービスのグロースまではそう行えなかった。

しかしながら、青木が受託開発部門の責任者となり、開発の在り方が大きく変わりつつある。
現在は受託開発部門はGrowth by グループと名前を変え、その名の通りグロースを主軸とおき、グロースを実現するための組織体系を形成した。

“デザイナーがグロースを行うこと”
井上が長年、デザイナーとして実現するべく、追い求めていた答えはそこにあり、井上は現場をこのように語る。

「個人のビジョンと会社のビジョンがすごくマッチしてきているので、これからもデザイナーの立場で、多くのグロースに関わっていきたいと思いますね」

最後に、井上にデザインに対する質問を投げかけてみた。
“デザインはゴールがないから難しいと思うが、それはどう思うか?”と言う質問であるが、井上はシンプルに口を開いた。

「自分の頭の中を先方に伝える事は、口で言うより、絵があったほうが分かりやすいじゃないですか?自分にとってデザインはそういう存在で、難しい事をうまく伝える為の方法と思っています」

青木は過去に、自身のプロフェッショナル社員の紹介において「デザインとは問題を解決すること」と語ったが、井上のこの回答も青木の回答とニアリーイコールと言って良いのであろう。
デザイナーではない人間にはデザインは深く、難しいものと考えるが、デザイナーにとってはデザインをする事が最もシンプルで最短の対話なのであろう。

そして青木は、今後の井上に期待したいことをこのように語る。

「bravesoftの初期デザイナーのひとりでもあり、その歴史の一部でもある。職人気質な面も強いが、クライアントとのコミュニケーションや期待を超えるクリエイティブで、ユーザに喜んでもらえるデザインを追求してもらいたい。」

デザイナーを志した高校時代から20年弱が経過し、人生の半分以上をデザインと向き合ってきた井上は、専門学校、フリーランス、bravesoftの経験で多くを経験した。

そして、井上が重視するデザイナーとしての本懐はクライアントとチームで共にサービスをグロースさせていく事であるが、それは振り返ると学生時代に学祭の準備をしていたデザイナーの原点となる記憶とほぼ変わらない内容であり、自分がずっと追い求めていたものは昔と何も変わっていなかった事を再確認した。

「やっぱ自分はデザインが好きなんですけど、みんなでワイワイしながらものづくりをする事が好きなんです。文化祭の延長線上だと思ってますが、そうして楽しみながら仕事をずっとしていきたいですよね」

これからも仲間と良いものを“創”っていくこと、これが井上が求めるデザインの答えである。

記)

井上の一冊

GROOVISIONS MGR Paperback – May 1, 2008 | by GROOVISIONS (著)

東京にあるデザインスタジオ、グルーヴィジョンズの作品集。 デザイナーを目指すきっかけをつくってくれた作品も収録されており、特に色の使い方や曲線が繊細で、自分の中の創作意欲を刺激してくれる。 悩んでる時や苦しい時にも、これを見て立ち返ることができる自分の原点のような一冊。