bravesoftの
プロフェッショナル社員
社員紹介vol.2 青木 意芽滋
青木の履歴書
- 1982年11月 石川県金沢で誕生
- 1988年3月 東京都稲城市に引越し
- 1995年4月 稲城第三中学校 入学
- 1998年4月 和光高校高校 入学
- 1998年8月 立川美術学院 通学
- 2002年4月 多摩美術大学 入学
- 2006年4月 東京藝術大学 大学院進学
- 2008年4月 PCサイトメーカーに就職
- 2009年8月 フリーランスとして生計を立てる
- 2014年4月 bravesoftに初のデザイナー職として入社
- 2015年1月 ビジネス・プロデュース部の副部長に就任
- 2016年1月 クリエイティブ・セクション 事業部長就任 コンシューマ向け自社事業部門の責任者も兼任
- 2017年1月 執行役員就任
- 2018年1月 クリエイティブ・セクションをクリエイティブ事業部に事業部化
- 2019年7月 取締役 兼 CDO(チーフ・デザイン・オフィサー)就任
青木の流儀
はじめに
青木意芽滋(あおき いめじ)、一度聞いたら誰もが忘れないそのインパクトのある名前の由来は諸説あるとの事ではあるが、一番大きな由来は語感の通りのImageであり、「想像」「イメージ」が由来する。
“いめじ”と名付けられた少年は、紆余曲折を経た人生において「想像」というよりかは「創造」、クリエイトの分野に図らずして興味を抱き、芸術・アートの世界に人生の大半を費やし、デザイナーが1人もいなかったbravesoftに入社し、成果を上げることでデザイナー専門のチームの設立、クリエイティブ事業部の設立を経て、グッドデザイン賞も受賞し、今ではbravesoftのデザインを統括するCDO(チーフ・デザイン・オフィサー)として、アプリのみならず全社的なデザインを担う存在となった。
今回の社員紹介においては、青木がこれまでどのような人生を送り、どのような結果を残し、このようなクリエイターとして活躍できるように至ったか、その過去を紐解き、現在に至るまでの「青木の流儀」を紹介する。
先輩の靴磨きが嫌で1日でサッカー部を辞めた
1982年11月、「アート」「芸術」をこよなく愛する両親の元で青木は生を受けた。父親は文章を書いたり色々な事を仕事とし、母親はデザイナーという家庭環境で育った青木は、出生は石川県金沢市であったが、富山県・神奈川県など住まいを転々とし、小学校に入学する少し前に東京に引っ越した。
この頃の青木家は厳格なルールがあり、「ゲーム」「漫画」「テレビ」という当時の子供に於いて不可欠とも言われているカルチャーを禁じられていた。当時の子供達が熱中したファミコンやスーパーファミコンというものも無く、皆読んでいた少年ジャンプも初めて読んだのは20歳の頃だったという。
青木は「でも学校が終わったり休みの日は友達と外で遊んでいたし、他と比較もできなかったから、特に違和感もなく“そういうもの”と思った」と当時を振り返り、そして「そういう環境だったから逆に流行とかにとらわれないアイデンティティが形成された」とも本人は述懐する。
そんな青木少年が当時家で熱中していた事は「勉強」であった。週の初めに“今週はこれだけ勉強しよう”と、マス目の紙に「国語 1時間」「算数1時間」などのノルマを記載した用紙を用意し、実際にそのマス目の項目を勉強し終えたら紙を1枚切り取り、週のノルマを消化して最終的には紙をない状態にするということに快感を覚えて熱中していた。青木は大胆さと緻密さを内包する存在であると私は評するが、後者の部分である緻密さと言った部分はこの頃の経験が活きており、目標を立てて地道に実践していき、コミットメントや事業目標を一歩一歩達成していくという今の仕事観にも少なからず繋がっていると言えるであろう。
勉強以外はとにかくスポーツや外で遊ぶことに熱中していた。運動会でも毎年1位を取るようなスポーツ少年であった。また、青木が住んでいた稲城市は「ヴェルディ」の拠点もあったので、毎日日が暮れるまでサッカーに明け暮れていた。
そんな勉強とスポーツに明け暮れていた青木の小学校時代ではあるが、それ以外にも印象に残っているシーンがある。何気なくたまたま見かけた内容であるが、秋葉原電気街の約1000台のテレビモニターをジャックした『秋葉原TV』と言う企画であり、店頭にディスプレーされた無数のテレビモニターに、ビデオアート作品を上映した企画だった。誰が企画したのかも分からなかったが、当時の青木に深く、その出来事を印象付けた。
そうして勉強・スポーツに明け暮れていた青木は中学校は地元の稲城第三中学校に入学するが、そこでも変わらずスポーツ・勉強に明け暮れた。「先輩の靴磨きをするのが嫌だった」と今らしい譲れない主張で、サッカー部には入って見たものの1日で退部し、毎週末地域のサッカーチームで外国人とサッカーをする事に夢中になった。
勉強も変わらず、前述のノルマを設定して達成した紙を勉強する勉強法を繰り返した結果、当時の成績は5段階評価で9科目平均が4.8であったという事であり、学力面でも一目置かれる存在であった。
そんな青木は生徒会長も務めていた。スポーツと勉強ができる生徒会長と言うとドラマや物語に出てくるような優等生をイメージするが、青木は「楽しいこと・面白いことをどんどんやっていきたい」と思うタイプの生徒会長で「制服の廃止」などを提唱したが、変革を望まなかった学校にとって青木の提案は受け入れ難い内容が多く、青木が望む変革は行われなかった。
それが原因かは定かではないと本人も当時を述懐しているが、中学3年生の夏、何もかもが馬鹿らしいと思った青木は小学校から続けていた一切の勉強を辞めた。
「もう勉強は無意味だから働こう」と決心し、一切の勉強を放棄した青木であったが、青木の母親はせめて高校は行ってほしいと言う思いで、校風が自由な和光高校を推薦した。取り敢えず親の顔を立てる意味でも高校に通ったてみたが、結果として3ヶ月で高校に行くのを辞めた。和光高校は自由な校風であり、青木も少なからず自由を求めて入学したが、自由過ぎる環境は張り合いが無く、面白みに欠けた。
そうして高校に行かなくなった青木を心配した当時の担任が美術の先生であった。結果としてこの当時の担任の発言が今後の青木の人生を左右する事となる。
「お前、このままプラプラするんだったら、美術予備校行ってみないか?」
特に毎日やる事もなく暇だったので、軽い気持ちでじゃあ行ってみるかと立川美術学院を覗いてみた。そこで「デザインコース」と「絵画コース」を勧められ、母親がデザイナーだった背景もありデザインコースを志望したが、「今後デザイナーを目指すなら油絵を学んでおいた方が良い」と言う当時の担当者の勢いに押され、青木は油絵コースを選考する事となった。蓋を開けてみると「絵を描くのはお金が掛かるんだよ。絵具もそうだしキャンバスもそう安くないから、あれは結局予備校の利益の為に勧められた気がする(笑)」と当時を振り返るが、現在の青木の姿があるのはこの際に「絵画」をしっかり学んだことが起因するであろう。
初めて描いた絵は美術でお馴染みの「ラボルト」。出来上がりには自信があったが、出来上がった全生徒の作品の中で最下位の評価だった。「次はもっと上手く描こう!」ここで青木の闘志に火がつき、そこから青木は絵画の世界にのめり込んでいった。
やる事は他にないのでアルバイトと予備校の授業に費やした。元々高校生コースは週2回、夕方の3時間だけだったが、それだけでは物足りず、芸術大学の入学を目指す浪人生と同じ時間を予備校で過ごし、一心不乱に絵を描いていた。予備校では毎日課題があったので、1日1枚、多い時は1日3枚ほどの絵をとにかく必死に描き続けていた。やりたい事が特に無いから絵を描き続けていた青木であったが、高校2年生の頃美術大学の存在を知り、そのような進路という選択肢もあるということを知った青木は進学を希望して受験勉強を開始。一浪を経て多摩美術大学に入学。
15歳から絵を描き、17歳の冬に美大進学を目指し、念願叶って美大に入学した青木は水を得た魚のように、好き勝手やりたい放題、絵を描くことに留まらず、映像作品やワークショップ、インスタレーションなどの幅広い表現をする事で大学生活を謳歌した。
そんな夢のような充実した大学生活ではあったが卒業が近づき、周りの友人たちは就職を始めた。そんな中で青木が目指した進路は「東京藝術大学に進学すること」。それには理由があった。
それを語る上で時計の針を少し戻す。
人生の師との出会い
青木が何もかもが嫌になって勉強を放棄した中学校時代、何気なく読んでいた教科書で一つ印象に残っている出来事がある。
その教科書には小学校時代に印象に残っていた「秋葉原TV」が紹介されており、そのイベントを企画をした人ー中村政人氏が紹介されていた。その時、中村政人という名前は青木の記憶に深く残った。そんな中村氏はたまたま青木が高校時代の担任に勧められて進学した立川美術学院のOBでもあった。
大学時代に芸術を学ぶ事で、より深く中村氏のこれまでの作品や実績を知り、よりこの人に教示してもらいたいと思っていた矢先、2003年より中村氏が東京藝術大学美術学部助教授に就任する事を知り、青木は「この人から色々学びたい」という思いで同大学の大学院への進学を志した。
大学院の進学試験は作品評価。その実技試験で青木は白紙の紙を提出した。理由は色々ある。その思いを込めた作品が評価され、青木は晴れて東京藝術大学院への進学が決まる。
大学院は茨城の取手キャンパス。1年目は念願叶い中村氏の師事を受けることになったが、それこそ寝る間も無いくらい多忙であり、充実した濃い生活を過ごした。中村氏が各地の市区町村、時には海外で行う街ぐるみのアートプロジェクトの手伝い、アーティストのマネジメントから雑用、更には協賛スポンサーを募るための企業へのプレゼンテーション、何から何までやり、その中で空いた時間で自分の作品を作るという生活を過ごした。賃貸契約していたマンションにはほとんど帰らず、大学に何日も泊まり込んでいた。
そして大学2年目になり、中村氏が手掛けていたアートプロジェクトを自分で実現したいという思いから茨城県の空き家を住まい 兼「アトリエ」「実験場」「展示場」にして、色々と作品を作っていた。空き家という自由な環境でこれまで「やりたいけどやれなかった」ことを実現し、1日の大半をこの場所で費やして好き放題、芸術と向き合っていた。その空き家で共に過ごし、共に作業する学友たちも自由な発想を持つクリエイターで、多くのことを教え・教えられる環境で刺激的な日々を過ごした。その中でみんなを束ねたり、街を拠点として多くの企画を考え、実行に至った。中学校時代に提唱したが拒絶された「楽しい事」「面白い事」をここで実現する事ができた。
その中で自分の個展など展覧会の告知などをする為にデザインツールなどを使用し、WEBサイトなどを作るようになったのもこの時期であった。もちろんそれが一生の仕事になるとは思っていなかった。やりたい事を実現するための一つの過程として、そうした技能を身につけていった。
しかしながら、そうした「楽しい事」だけでは生活ができなかったので、青木はアルバイトにも精を出した。アート系のアルバイトや先輩の手伝いなども行っていたがそれだけでは食べていけないので、コンビニや引越しのアルバイトも経験した。
そうして大学院卒業の時期を迎えるが、芸術への情熱は治らなかった。とりあえずは生活の為にコンピューターメーカーに就職はしたものの、定時を迎えると一目散に職場を出て、アトリエで作品を作っていた。この頃作っていた作品はインスタレーション(空間芸術)と呼ばれているもので、あくまで仕事はお金を稼ぐための方法と割り切り、業後の作業にに没頭した。
その中でも最初の職場でWEBデザインや撮影などを行っていた事は「金を稼ぐ」スキルに直結し、1年半働いたその職場を退職した後もフリーランスとしてアート系のWEBサイトを作ったり、ECサイトを作る事で生計を立てられるようにはなっていた。
そうした形で日中は金を稼ぎ、夜は芸術・アートに勤しむ。そうした生活を大学院卒業後、数年続けていた青木だったが、2013年でキッパリとその生活を辞める事を決心した。
青木が30歳手前を迎える頃だった。
そっちの会社の話をしている方が楽しそう
青木は2012年に結婚をしている。ただ家庭を持った事が原因ではなく、こうした理由でこれまでの人生と決別したと本人は語る。
「創る事が苦しくなってきて、ちょっと疲れたから辞めた。昔から辞めようと思ったら誰が何と言ってもキッパリと辞める生活だったから(笑)」
そうして第二の人生を歩むべく転職活動をした青木は、これまでのアートに費やしてきたデザインセンスに加え、WEBデザインなどの技能も身につけていたので、あっさりと大手広告代理店から内定を貰う。その会社に行こうとほぼ決めていた青木であったが、半ば「冷やかし」でアプリ開発会社も知っておこうと、bravesoftに応募してみた。
そしてbravesoftの門を叩き、カフェで一次面接をしたのは代表取締役の菅澤であった。菅澤と面接で色々な話してをして青木が思ったのは「この人、中村さんに似ている」という印象。アートを求め、思いついた事をなんでもやってみる中村氏の姿と、最強のものづくり集団を目指し、とにかく迷ったら挑戦を続ける菅澤の姿が重なった。
そして一次面接を通過し、二次面接で当時の役員と面接を行った際「アプリはWEBデザインと違い“身体性”のデザインを考えなければならないから、とてもやり甲斐があるよ」という言葉も響いた。そうして二次面接を終え、bravesoftからも内定を貰った。
完全に大手広告代理店に行くつもりで、bravesoftを冷やかしで受けた青木であったが、bravesoftで出会って話を聞いた事で気持ちが揺らいでいた。アプリの世界も楽しそうで、何より菅澤と働くことにも魅力を感じた。
そして、妻に相談した際に、青木の妻はこう言った——
「bravesoftの話をしている時の方が楽しそうだったから、そっちに行った方がいいんじゃない?」
bravesoftは今ではグループ全体で200人弱になってはいるが、当時は30人前後で吹けば飛ばされるような会社。一方内定を貰った大手広告代理店は上場もしており、社会的信用も圧倒的に違えば、初任給の額も圧倒的に違った。
そこでbravesoftに傾きつつあった青木ではあったが、妻の一声に完全に後押しされ、bravesoftで働いてみようと言う思いに至った。
そうして2014年4月、青木はbravesoftに入社した。
その頃のbravesoftは完全な「アプリ開発会社」。デザイナーは1人もおらず、デザインは全て外注。外注していた出入りのデザイナーが毎日オフィスに顔を出し「御用聞き」を行っている状況だった。
入社初日、デザインの仕事は無く、青木に話しかけてくれる人も誰もいない。入社を誤ったと、広告代理店に行くべきだったと後悔したが、初日の業後に菅澤に飲みに誘われた。
そこで菅澤が青木にいったアドバイスは一言。
「出入りのデザイナーに負けちゃダメだよ」
bravesoftは黙って待っていても仕事を与えてくれる環境ではない。仕事が欲しければ自分で取って来いと言う意味であった。青木の闘志に火がついた。
翌日から青木は社内で営業を始めた。全社員に話しかけて「何かデザインの仕事はないか」を尋ね回り、徐々にコミュニケーションの量を増やし、結果として信頼を勝ち取って行った。その時の青木が掲げていたポリシーは「外注をゼロにする事」「デザインの仕事は絶対に断らない事」の2点、その信念に基づき、積極的に行動を起こそうと思ったが、いきなり青木は壁にぶち当たった。
青木はこれまでアプリのデザイン経験が無く、何を抑えれば良いのかも分からず、ルールやしきたりも分からず、とにかく難しかった。
「自分は初めてこの業界に来て、アプリの経験がないから、人の倍やらないととても追いつけない」
そう思った青木は毎日、始発で出勤し、終電で帰宅すると言うスタイルを貫いた。土日も休まずに働いた。みんなが土日を利用して社員旅行に行った際も会社に残り、週明けのコンペに向けた資料を用意した。
「死ぬ気で頑張らなければついていけない」
当時の青木はいつもそう思っていたし、実際に死ぬ気で頑張り、成果を挙げていった。
その覚悟と行動を菅澤は評価し、青木に多くの仕事と責任、裁量を与え、気がつくと青木はbravesoftにおいて無くてはならない存在となっていた。
bravesoftのデザインの未来
青木が入社してからの6年間の軌跡を簡単に紹介する。
入社して9ヶ月が経った2015年1月、当時所属してたビジネスプロデュース部の副部長に青木は昇進する。そこで受託の営業〜デザインコンペに従事し、更にそこから1年が経過した2016年1月、当時は青木しかいなかったデザイナーも徐々に人が増え「クリエイティブ・セクション」を設立。更にはこのタイミングでboketeやHONNEなどを開発・運用するコンシューマ向け自社事業の部門も責任者として兼任する。
そこからはマネジメント業務の傍ら、デザインからサービスのグロース、営業もディレクションまでも幅広く開発以外のあらゆる分野を担当する。当初難しいと思っていたアプリデザインも、多くのプロジェクトで成功と失敗を繰り返して行く事で、クライアントが求めるUX(User eXperience:ユーザー体験)を高めていく事を提案できるようになっていった。
徐々に案件規模も大きくなり、入社当初の何倍・何十倍の規模の会社と、今までに無い位の規模の大型案件も一緒にやるようになり、自信が芽生え、それが確信へと変わっていった。
そして2018年1月、入社当初から青木が実践してきた「仕事を取りに行く姿勢」を個人では無くチームで達成したいと言う思いから、これまで社内デザイン担当部門であったクリエイティブ・セクションを「クリエイティブ事業部」へ昇華させた。受託部門からデザインの仕事を貰うだけでは無く、自分たちで仕事を取ってくる所から初めて、デザインだけでは無く全ての上流工程を担当する事業部にしていきたいと言う思いを発信し続けて、実現させた。
そうして2018年、大きく目標を達成したクリエイティブ事業部は、2019年さらに大きな売上数字目標を任せられる事となったが、それと同時に青木が掲げた目標は「グッドデザイン賞入選」。そうしてこの目標も10ヶ月後に達成し、そして今、青木は次の目標を見ている。
これらは全て青木が思う「楽しい事」「面白い事」であり、青木が新しいやりたいことを思い続ける以上、今後もそれは継続して続いて行くであろう。
再度に、青木に「デザインとは何か?」と言う質問を投げかけてみた所、「革新的」「アヴァンギャルド」と言うデザインと言えば多くの人がイメージするような回答と180度違う青木の回答は下記。
「デザインとは、“問題を解決すること”」
すなわち「使いづらい」「わかりにくい」など、何らかの課題があるアプリやWEBサイトを、「使いやすく」「分かりやすく」変える事で、ユーザーの課題を解決して行く事が“デザイン”の本質であると青木は考える。
bravesoftはまだまだ世間一般から見た場合は「アプリ開発会社」と言う評価がほとんどであるので、「bravesoft=アプリデザイン会社」という価値をより提供していく事こそが、CDO(チーフ・デザイン・オフィサー)である青木がbravesoftでやるべき責務であると考えている。
その上で青木が今掲げるビジョンは「全ての体験をデザイン」して行くこと。例えばお客様との打ち合わせ一つでもしっかりとデザイン(=課題解決)して行く事が重要であり、その積み重ねを行う事でbravesoftという会社が世の中に対し、デザインのあるべき姿を発信して行く事が青木のビジョンであり、それを実現するという目標には「楽しさ」「面白さ」が溢れている。
「自分がアートを辞めたのは作りたいものが無くなった事が大きいけど、デザイン=課題解決と考えればまだまだやるべき事はたくさんあると思っている。その中で創る事が好きで、それを実現したいと思っている人と一緒に働きたいかな」
青木の一冊
Anselm Reyle - Mystic Silver | Almine Rech Editions
Anselm Reyle|Mystic Silver
ドイツの現代美術家アンセルム・ライラ(Anselm Reyle)の作品集。 海外のアート雑誌に掲載されていた作品に、『かっこいい!こんな自由があるんだ!』と受けた衝撃は、自分のなかでの自由をアップデートさせられた瞬間でもあった。 音楽や映画などに歴史や文脈があるように、アートの最先端に挑戦し続ける大胆で繊細な作品や動向は、いまも驚かされ続ける憧れの存在でもある。 そんな彼に、うまれたばかりの息子を抱っこしてもらいに会いにいったこともいい想い出w 誰よりも自由でいることを刺激してくれる一冊。