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bravesoftの
プロフェッショナル社員

社員紹介vol.8 藤本 達男

藤本 達男 現在のbravesoftのスタッフでは菅澤の次に歴史を知る男

藤本の履歴書

藤本達男。現在のbravesoftのスタッフでは菅澤の次に歴史を知る男

千葉県木更津市で誕生

木更津請西小学校 入学

木更津第二中学校 入学

千葉県立京葉工業高校 入学

濱田重工株式会社 入社

bravesoftに1度目の入社
サーバーサイドエンジニアとして受託開発サービスの開発を行う

bravesoft 退職

個人でアプリ開発を行う為、就職せずに個人開発に没頭
(この間フリーランスなども経験)

bravesoftに再入社
新規事業を行うGlobal Business Solution事業部の立ち上げメンバーに専任

Appvisor Event(現eventos)リリース
リリース後も追加機能の設計・開発を担当

チーフエンジニア専任

DRTチーム(コンシューマ向けアプリ開発チーム、現PG事業部)を兼任

下期 Most Brave Personに選出

eventosリニューアルのプロジェクトに専任

eventosを離れ受託開発部門 DX Unitに異動

藤本の流儀

はじめに

bravesoftはベンチャー企業であり、御多分に洩れず毎年多くの社員が入社し、多くの社員が卒業していく。
卒業したメンバーの進路は「独立して会社設立」「磨いた技術でフリーランスとして生計を立てる」「より専門性に特化した同職種に転職」と様々だが、bravesoftでの経験を糧にステップアップする社員が多く、卒業した後に「bravesoftの経験が活きている」と振り返るケースは多い。

そしてbravesoftは「ごぶさたディナー」という制度を福利厚生で設けている。bravesoftを卒業し、違う環境で経験を積んで、再度bravesoftに戻る事を検討している社員と「ごぶさた」に食事を行い、その際の経験談などに花を咲かし、双方のビジョンが一致した際に再度bravesoftで働く再雇用制度である。

本日紹介する藤本は一度bravesoftを退職し、その上で「ごぶさたディナー」を経て、二度目の入社を果たす2021年2月の現時点では唯一の出戻り社員である。bravesoftに入社した際、藤本は仕事でプログラミングをした経験が一切なかった。

そのような状況でプログラミングを学び、色々な開発を経験し、その中でやりたい事が生まれ、一度はbravesoftを離れる決心をした。

そして個人でやりたい開発に向き合い、挫折し、再度bravesoftに戻ってくる事を考え、再入社し、そしてeventosを任せられ、チーフエンジニアとてこれまでのbravesoftで何を成し遂げ、これからは何を目指しているのか…様々な角度、ストーリーから深く掘り下げた記録を紹介する。エンジニア経験、プログラミング経験の無い方も是非、参考になる内容なので読んでみて欲しい。

bravesoftと一緒にエンジニアとして成長してきた藤本

やっぱり自分がやりたいのはプログラミングでした

1981年、千葉県木更津市で藤本は生を受けた。家族構成は両親と2人の兄の5人家族。2人の兄は双子で、4つ歳が離れた藤本を可愛がってくれたという。

小学校は地元の木更津請西小学校に入学。
小学校の頃はアクティブな性格で、カブトムシを捕まえたり、どちらかと言うとアウトドアな遊びを好む少年だった。

転機は小学校高学年の頃。少し早めの成長期を迎えていた藤本は、小学校低学年の頃は周りの友人達と比較しても身長が高く目立った存在であったが、年齢を重ねていくうちに周りの友人達が成長期を迎え、友人達がどんどん藤本の背を越えて、遊びや運動でもみんなができる事が藤本ができない事が増え、思い通りに行かないことが増えた。

そしてインドア派に一転。家でゲームなどを好む少年となった。

中学校は木更津第二中学校に進学。
その学校は何かの部活動に入部しないといけない決まりがあった為、美術部に入部したが籍は置いていたものの一度も部活に参加しない幽霊部員となり、小学校時代と変わらずに学校から帰ってきてからは当時流行していたゲームに没頭していた。

一時期塾に通ったりもしていたが基本的に勉強もせず、なんとなくテストを受けて、なんとなくの成績をとる。そんなどこにでもいるような目立たない生徒だった。

高校は千葉県立京葉工業高校に入学。
勉強しなくても入学できて、仲の良い友達がそこに行くという理由でその高校に進学し、これまでと変わらず帰宅部、放課後は家でゲームに没頭する日々を過ごしていたが、そんな藤本の今後の人生を変える「転機」が授業で訪れた。

「きっかけは“ポケコン”でしたね。そこからプログラミングにのめり込みました」

ポケコン(ポケットコンピューター)は、1980年代に広く使われた携帯用の小型のコンピューターであり、製品としては関数電卓の延長線上であったが、そこでC言語・ベーシックなどのプログラミングを書く事ができた。

本来、学校のカリキュラムにおいては毎週少しずつポケコンを使って、高校生活の3年間を通して一定量の工程を学ぶ予定であったが、藤本は図書館でポケコン用のプログラミングの本を読んだ影響もあり、わずか2週間で全ての工程を覚える事ができた。

そこからは「どんどん先に行こう」と勉強を行い、自作でゲームを作れるくらいまでポケコンを使いこなせるようになった。
いつしかゲームをすることより「ゲームを作ること」に夢中になり、プログラミングの世界にのめり込んで行った。

そうして時は流れ、高校卒業を目前に控えた藤本であったが、進学は特に考えていなかった。

「これ以上勉強はしたくなかったし、家からも出たかったんで、早く働いて稼ぎたいと思って就職を選びました」

そうして決めた就職先は日本全国に展開している濱田重工の木更津支店。電気工事を行う会社であり、藤本が高校を卒業した翌年の2001年に開業予定のテーマパークにおける遊具の設備工事などを請け負う会社であり、 実際にテーマパークに常駐して働くという仕事内容に魅力を感じ、高校に届いていたその求人に連絡し、面接を経て、入社が決まった。
そこでの業務内容は機械の整備などであり、高校時代に熱中していたプログラミングとは離れる業務内容であったが、藤本は当時をこう振り返る。

「あの頃はそこまで考えてなかったですね。なんとなく楽しそうだったので応募したら内定をもらったので、その会社で良いかなと思って。プログラミングを仕事にすることは考えてなかったですね」

そうして社会人生活が始まった。
元々1年くらい勉強をしてから現場対応を行う予定だったが、現場からの要請もあり入社後半年くらいで現地へ。そして機械の動作確認やチェックなどを行う日々。 誰でもできる簡単な作業であったが、それはそれで楽しかった。
そうして2001年の開業以降も施設の整備、メンテナンスなどを行い、そして居心地の良いその会社で藤本は勤務を続けた。仕事では一切プログラミングは行わなかった。

居心地がよいという理由で藤本はその会社で7年半働いていたが、2007年にその会社を離れる事を決めた。
仕事に完全に慣れて刺激が薄れていたこと、仲の良い社員が会社を去っていったこと、これからもこの仕事を続けていくのかを不安に思ったこと、色々な理由があったが、最大の理由は1つだった。

「その会社で働いていた際に、1台だけ自由に使っていいPCがあったんです。ヒマだった時とかはExcelでプログラミングをして、オセロゲームとか、シューティングゲームとか作ってましたね。その経験もあって、やっぱ思ったんです。プログラミングの仕事がしたいなって」

bravesoftへの入社、そして挫折

藤本がbravesoftに入社を決めた明確な理由はなかった。
前述の通り、仕事の空き時間に遊びでプログラミングはやっていたが、本格的にプログラミングと向き合っていたのは高校時代、 7年前にまで遡る。しかもその時は授業やプライベートとして行うプログラミングであり、金を稼ぐ為の本格的なプログラミングではなかった。
bravesoft代表取締役CEO&CTOの菅澤英司は、その頃の藤本の印象をこう物語る。

「設立から3年目で、まだ社員も全然いない雑居ビルに面接に来たのを覚えている。お互い24歳ぐらいだったかな。確かオセロとシューティングゲームを持ってきて、そのゲームが難しすぎてクリアできないので、たつおがやってみたらクリアできて盛り上がった。で、採用(笑)」

藤本はbravesoftを入社を決めた理由は「社長が同い年で、面白そうだったから」と振り返るが、そうして自分が遊びで作ったプログラミングのゲームを遊んでくれて、 喜んでくれて、真剣に向き合ってくれた部分が大きいのでは無いかと筆者は推察する。
そうして他にも内定を貰った会社はあったが、藤本はプログラマーとしての転身と、bravesoftへの入社を決めた。

入社してからはサーバーサイドエンジニアとして、まずは占いのサイトを担当した。そのサイトはPHPで作られたサイトだったが、 藤本は当時PHPを全く理解していなかった。

「PHPは全く知らなかったので…社長とか先輩とかに色々聞きながら仕事してましたね。ほとんど毎日残業してました。ただ、全然苦じゃなかったですね。知らない事を知れるのは楽しかったですし」

当時のbravesoftはスマートフォンがまだ世に普及する少し前で、事業としてアプリに本格着手する前であり、WEBの案件がほとんどであった。
そしてその当時は営業が弱く、炎上案件も多かったと菅澤は述懐するが、そんな中で藤本は菅澤らと共に、炎上案件の対応を行いながら、サーバーサイドエンジニアとしてのスキルを徐々に伸ばしていったが、入社して2年後の大型プロジェクトにて挫折を味わう。

「かなり大規模なサイトリニューアルを行ったんですが、進め方に色々問題があって…リリースの1週間前にこのままではマズいという事に気づいて、そこからは1週間くらい徹夜して対応したんです。 その時、自分の力不足を感じて…プログラマーとしてやっていくのは無理と思ってしまいました。趣味でやるべきだなと…」

元々藤本は「プログラマーとして、3年働いてみて無理だと思ったら諦めよう」と決めていた。入社して2年目でその蹉跌を味わい、心が折れてしまった。

そして藤本は退職を考え、周りにも相談した。

そうして残り1年はズルズルと惰性で働いていたが、当初の予定通り3年間プログラマーとして働いた藤本は2010年12月にbravesoftを退職する。

一度は離れたbravesoft。懐かしそうに当時の記憶を語る

自由なものづくりへの挑戦と挫折

そうしてbravesoftを退職した藤本はプログラマーとしての職種からは離れたが、実はプログラミングでやりたい事があった。
ここで混合しそうなので定義するが、プログラマーは「プログラミングをしてお金を稼ぐ人」であり、藤本は「自分でやりたいと思わないプログラミングをしてお金を稼ぐこと」から一線は退いたが、プログラミング事態の情熱は消えず、むしろ燃え上がっていた。

「ずっとアプリを作りたいと思っていたので、それに専念したいなと思いました」

そうしてビジネスではなく、自由な時間で誰にも縛られずに自分のやりたい事に向き合い、プログラミングをすることに熱中し、そしてずっと構想していたアプリ開発を行った。当初の2ヶ月はなんとか集中してプログラミングのみを行っていたが、無収入の状態で生活に困窮し、フリーランスとしてアプリ開発の業務を行いつつ生計を立てていた。

そうして9ヶ月、フリーランスとして働き、生活費を蓄えた藤本はフリーランスの契約延長を断り、環境を変えて鳥取県米子市に移住し、1年間と期限を定めて、再びプログラミングに没頭する生活を送った。
そこでアプリサービスを2本作って、世に公開した。

しかし、そのサービスは売れなかった。

これ以上、1人でやっていくのも限界と感じて、0からプロダクトを作る道を諦めたが、 やはり自分にはプログラミングしかないと、再度プログラマーとしてやっていく事を決意した藤本は、米子を離れ、再び関東に戻った。
就職が決まるまでは友達の家に居候して、そこで就職活動を行ったが、希望の会社には入れなかった。

ふと、菅澤の事を思い出した。電話番号は知っているので変わっていなければ繋がるはず。 そして菅澤と電話で2年ぶりに再会し、久しぶりに会うことになった。
そして居酒屋で酒を飲みながら、藤本自身が「これまで何をしてきたか」「どんな製品を作ったか」、そんな事を菅澤に話し、「自分が抜けてから会社はどうか」「今誰がどんなことをやっているのか」そんな話を菅澤から聞いた。時間はあっという間に過ぎていった。

そんな話をしていると、藤本にある情景が浮かんだ。

「自分がbravesoftに戻って活躍する姿がイメージできたんです。bravesoftを離れはしましたがすんなりと溶け込めるイメージが浮かびましたし、離れて培った経験で貢献できるとも思いました」

そうして「もう一度bravesoftに戻って働きたい」という藤本からの申し出を菅澤は快諾し、2013年4月、藤本は2度目のbravesoftの社員となった。藤本が32歳の頃だった。

2年間の距離や壁が一瞬でなくなり、bravesoftでの就業をイメージできた

eventosを経て、bravesoftをより高いレベルへ

そしてbravesoftに復職した藤本が初めて任された部門は、新規事業を創出していくGlobal Business Solution事業部。
藤本が復職した2013年は、藤本が退職した2010年と比較して、アプリ案件を多く請け負い、開発し、bravesoftはアプリの経験値が高くなっていた事より、アプリに付加価値をつける「appvisor」という自社製品の充実を検討していた。
その際に生まれたサービスのひとつが今も残る「Appvisor Push」であるが、この時期にbravesoftで打ち出そうとしていてサービスは紙のポイントカードをアプリ化する「Appvisor Stamp」と、イベントで使用する基本機能をパッケージ化する「Appvisor Event」。この後者が今の「eventos」である。

藤本はこれらのAppvisor製品に対し、プログラミングだけではなく設計や企画などを行う、ここではエンジニアと定義するが、そうしたエンジニアの業務をメインに行った。
開発の一部は子会社であるbravesoft北京で行っていたが、基本的にこれまでは自分で全てプログラミングまでを行っていたが、誰かに作ってもらうのは経験が無く、上手くいかないことも多くフラストレーションを抱えた。自分でプログラミングをしたいとも考えた。

そうして2014年6月にAppvisor Stampが、8月にAppvisor Eventの販売開始。
リリース以降も保守対応やメンテナンス、追加改修に追われる両サービスを担当し、サービスの認知度も増えて徐々に対応するスタッフの数も増え、気づけば仕事を教える側に回っていた藤本は2016年1月にチーフエンジニアに就任する。

「正直、なんでチーフエンジニアになったのかはよくわかってなかったですね(笑)ただ、やることは変わらなかったです」

そうして2016年7月からはAppvisor製品のサーバーサイドエンジニア業務に加え、かねてより志願していたコンシューマ部門のアプリ開発も兼任で対応する。元々コンシューマ向けアプリを作りたかった旨を伝えていたのもあり、bravesoftは挑戦をしたい意向があれば応えてくれる会社であるので、藤本はAppvisorとコンシューマ向けアプリ、二足の草鞋を履く形でこの時期は広く業務を行っていた。

とは言うもののあくまでメインは自部門の業務。更にこの時期にAppvisor Stampは撤退し、Appvisor eventは「eventos(イベントス)」に名前を変え、更なる機能開発・規模拡大を図ったが、藤本はeventosに対して1つの疑念を抱いていた。

「eventosはAppvisor eventの頃から、かなりのその場しのぎの開発を行なっていて、正直ボロボロだったんです。ですので、1から作り直す必要があると言う事は、兼ねてからずっと言っていました」

その間にもeventosは成長を続け、東京ゲームショウを皮切りにミニ四駆のTAMIYAパスポート、東京モーターショーと次々と会場の規模や、 参加人数規模が拡大するイベントでも導入されるようになったが、機能が足りずにイベント期日が迫り、プロジェクトメンバーが毎日夜遅くまで作業をしていた。
それら開発においても最前線で藤本は働き、結果としてこの年2017年下期のMost Brave Personも受賞する奮闘ぶりを見せたが、もうeventosは限界だった。

そして、この時期よりeventos統括に就任した清田の判断で、eventosは1から作り直すことを決断する。

2018年からは多くのエンジニアを内外からアサインし、eventosのフルリニューアル、社内用語で言う所の「eventos 1.0」の開発が始まった。
これまではオールドスタイルの開発を行なっていたが、一新することで新技術の導入を行い、新しい技術にチャレンジできる事は楽しかったが、開発するエンジニアを統括する側にいた藤本は、そのエンジニアの間で調整をする事に苦労した。

そこから1年以上の歳月を経て、そうして苦労の末…eventos 1.0はリリースされた。 尽きた藤本は長く働いたeventos部門を離れ、受託開発の部門へ異動となった。

「元々、ずっと受託をやりたいと言う話はしていたんです。その結果ちょっとだけコンシューマプリをやらせてもらいましたけど、eventos1.0が始まったのでそっちに専念する形になってしまったんですが、自分がeventosの作り直しをやりたいと言ったので、自分が離れるわけにはいかず…そして、それがひと段落ついたので異動させてもらえたと思ってますね」

そして2020年1月より、bravesoftでは10年振りに受託開発に戻ってきた。
そうしてアサインされた案件は、藤本が心が折れて退職を決意した際と同じくらいの規模のプロジェクトであったが、藤本はこう振り返る。

「規模は変わらないですが、昔はできていなかったルールなどが整備させていますし、関わっている人も多いですし、そして何よりも自分がeventosを経験して出来ることが大分増えているので、今は問題なくプロジェクトを進行できていますね。あの頃とは全然違います」

とは言うものの、まだまだ藤本の中で「スムーズに行けているいないところ」や、「無駄と感じるプロセス」などはあるようで、やりすぎな内容もあるし、不十分なところもあると考えている。
目下の藤本の思いとしては、そのアンバランスな部分をまずは整えて、レベル・水準の標準化を行うこと、そして同じ基準でものづくりを楽しんでいきたいと思っている。

昔は夢を見て、現実を知り、bravesoftを離れた藤本であったが、今は個人としてやりたいことは特に思いつかない。マネジメントも求められているが「それはちょっと…」と首を横に振っているが、それよりもとにかく今はチームを成長させること、bravesoftを成長させることだけを考えており、そんな藤本に対して代表の菅澤も「創業当初を知るものとして、内外に誇れる実績を打ち立てて欲しい」と期待している。

今回のインタビューを通して、一貫して藤本の口から出てきた言葉は「プログラミングは楽しい」ということ。 それは高校時代にポケコンに熱中していた頃も、濱田重工で空いた時間にExcelでゲームを作っていた頃も、bravesoftで大規模の受託開発案件を担当して挫折した頃も、 フリーで自分の作りたいアプリを作っていた頃も、bravesoftに戻ってeventosや自社アプリ、受託開発を作っている時も変わらず、その価値観は輝き続けている。
経験も大事ではあるが、それより大事であることは「プログラミングが好きなこと」これが今回のインタビューの結びとしたい。

最後に、藤本にどういう人間と働きたいかを聞いてみた。

「エンジニアにとって必要なことは、“作りたいもののイメージが明確であるか”と言う点だけだと思っています。それが明確であれば経験は必要ないですし、自分で調べて楽しみながらプログラミングができると思ってます。そうした”こだわり”を持った人と働きたいですね」

そのスキルもさることながら藤本が優れているのは人間性。多くのエンジニアから慕われている。

記)

藤本の一冊

ゲームシナリオのためのファンタジー事典 知っておきたい歴史・文化・お約束110 (NEXT CREATOR) 

ニート時代にゲームを作ろうとしてた時に参考にしていた本で、世界の歴史とか神話に登場する人物、武器や魔法、 アイテムなどの紹介等、普通に読んでても中二患者なら楽しめる一冊です。
何にでも理由を付けたくなる性分(これはエンジニア的?笑)なのでこういう解説本などが好きす。


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