社員紹介vol.10 岡 慶彦 - bravesoft

bravesoftの
プロフェッショナル社員

社員紹介vol.10 岡 慶彦

岡の履歴書

様々な経験をしてbravesoftに2017年よりジョイン。
  • 1981年9月 東京都築地で誕生
  • 1987年4月 京橋築地小学校 入学
  • 1994年4月 佃中学校 入学
  • 1997年4月 世田谷学園高校 入学
  • 2000年4月 地元の友人とビジネス開始
  • 2003年4月 事業者向けノンバンク金融企業に入社
  • 2009年4月 同社退職後、友人と古物商の会社を設立して起業
  • 2010年10月 イベント業界に転身
  • 2011年3月 サクラ・インターナショナル社に入社
    ビジネスデベロップメント事業部を立ち上げグループ長に就任
  • 2017年12月 bravesoftに入社
    セールス担当としてeventos事業部(現eventech UNIT)に配属
  • 2018年7月 eventos事業部 副部長に就任
  • 2019年1月 eventos Growth事業部 部長に就任
  • 2020年7月 Customer Success事業部 部長に就任

岡の流儀

はじめに

前田太尊を皆さんご存知であろうか?

一斉を風靡した少年マンガ「ろくでなしBLUES」の主人公・前田太尊は、不良ながらボクシングの世界チャンピオンになるという夢を持つキャラクターであり、勉強が苦手で、理不尽で、いつもトラブルばかり起こしてしまうお騒がせの主人公ではあるが、誰よりも仲間思いで、大切な仲間の為には誰よりも強い力を発揮し、周りには人が集まり、みんなに愛される存在である。

今回紹介するeventosの営業・セールス部門を統括する岡慶彦に、私はそんな前田太尊の姿を重ねてしまう。勉強が苦手…とは言わないが、時として理不尽で、ちょっと抜けている所がありつつも「イベント業界に革命を起こす」という夢を持ち、そして会社、事業部の仲間、そしてeventosを誰よりも大事に考え、その為に全力で闘い、そんな所が憎めなく、誰からも愛される男ー

そんな岡のこれまでの激動の半生を振り返り、これからイベント業界はどうあるべきか?そしてeventosはどういう未来を目指すか、というビジョンの話を深くインタビューさせて頂いた。

インタビューは終始笑顔が絶えず、過去のエピソードを面白おかしく紹介してくれた。

「夢はバスケのプロ選手」バスケットボール一色の学生時代

1981年、東京は築地にて岡は生を受けた。家族構成は建設業や酒屋など多岐に渡る職業に従事した父親と、20年間同じ飲食店で働く母親、そして妹との4人家族。父親は平日が仕事で、母親は土日に仕事という事もあり、放任で育った岡であったが、そんな岡に両親は多くの習い事をさせてくれた。ピアノ、器械体操、少林寺、そしてサッカーなど、多くの習い事を経験させてくれた事は岡の人格形成に影響している。

「両親はケンカばっかしていて騒がしい家でしたね(笑)」

そんな騒がしくも楽しい家庭で岡は幼年期を過ごした。

小学校は京橋築地小学校に入学。

今でこそ「ららぽーと豊洲」や「豊洲市場」が栄え、高層タワーマンションが連なり高級住宅街になった豊洲ではあったが、30年前の豊洲はまだ工業地帯。プレハブのトタン屋根が連なる下町であり、そんな当時の豊洲は所謂「不良」「ヤンキー」が多く存在した。

そんな周りの影響もあってか、岡もそうした悪い友人たちとイタズラをする、ヤンチャな少年時代を過ごした。友人とふざけて大怪我したり、ケンカをしたり、とにかく荒んだ小学校時代を送った。

「勉強は全くしなかったですね。進研ゼミの“チャレンジ”も最初の1ページしかできなかった(笑)」

その30年後に岡が勤める事となるbravesoftの主要株主であるベネッセホールディングス様の教材を全くやらなかったという…あまり声を大にしてできないエピソードではあるが、その時に岡は勉強より友達との遊びを優先し、この頃はサッカーに夢中になっていて、区でも有数な実力のサッカーチームに所属し、日が暮れるまでボールを追いかけていた。

しかし、そんな岡がサッカーの次に夢中になったのがバスケットボール。小学5年生の頃、当時同じマンションに住んでいた悪友が「サッカーができるならバスケもできるだろ?」と誘ってくれたのが大きな転機となった。

「サッカーは自分のポジションがリベロ(DF)で点を取れないのが不満だったんですけど、バスケは自分で点が取れるのですごく楽しかったですね」

気づけばサッカーよりバスケットボールに魅了され、小学校高学年の頃はバスケットボール一色。所属していたチームが東京都で3位になる競合チームだったのもあり、点を取る事、試合に勝つ事が楽しくなり、将来はバスケットボールのプロ選手になる事をこの頃から目指し始めた。

「小学校の時のバスケ仲間と“みんなで同じ中学校に行ってバスケしようぜ!”と言って、みんなで同じ中学校に進学しましたね」

中学校は公立の佃中学校に入学。そして仲間とバスケットボール部に入部しようとしたが予想外の展開が岡を待ち構えていた。

「顧問の先生がラグビーしか知らない人だったんです(笑)だから中学時代は、全部自分たちで練習方法とか考えてましたね」

結果として、厳しい顧問に指導されるのではなく、自分達で創意工夫して切磋琢磨するスタイルの方が結果として岡の性に合っていたのかも知れない。みんなで朝練をしたり、自分達で練習方法を考えた。そして当時はなんと言ってマンガ「SLAM
DUNK」全盛期。多くの少年少女がマンガの世界に憧れて、バスケットボール部の門を叩いたが、岡を始めとする仲間の部員達の意識は高く、マンガの影響で入部した多くの部員がレベルについていけず直ぐに退部していった。それでも岡はストイックに、馴れ合うよりも強くなる事を選び、辞めていく部員達を引き止めるような事はしなかった。

その努力が結実し、中学校時代のチームも小学校同様、東京都で3位になる強豪となり、中でも岡は東京都選抜のシューティングガードとして活躍。その活躍も「仲間に恵まれた結果」と岡は述懐する。

そうして高校はバスケットボールの名門校である世田谷学園高校に特待生として進学。

当時の世田谷学園高校は、日本の高校バスケットボール界のトップに君臨する秋田県・能代工業の出身のコーチを務めており、全国から有数の選手が集まる強豪校であった。

そんなハイレベルなバスケットボール部で、岡は高校2年生でシューティングガードのスターティングメンバーとなり、都大会や全国大会でも活躍。平日は部活動で、土日は大会や遠征。バスケ一色の高校生活を過ごした。

しかし、そんな順風満帆の岡に予期せぬ事態が訪れる。

「腰を痛めちゃって…ダメでしたね。高校3年生の頃も全国大会の2回戦で敗退しちゃって…そして、自分だけ早期引退したんですけど、そこで僕の代わりにスタメンになった2年生が活躍してウィンターカップで全国3位になって(笑)」

今でこそ笑って当時を振り返るが、その頃は言葉にならない葛藤があったであろう。

そして何より、当時のスターティングメンバーだった岡以外の同学年の4人はバスケットボールの強豪大学に進学し、その後にプロバスケットボール選手になったメンバーもいた。

一方、腰を痛めて早期引退した岡は希望していた大学から声は掛からなかった。

その挫折経験は結果として岡を強くする。

「バスケをやってて一番身についたのは“理不尽さ”ですね。怪我もそうですが、本当に思うようにいかない事ばかりでした。ただ、その経験が会って自分は強くなれたと思っています」

目当ての大学にも行けず、プロバスケットボール選手の夢を絶たれた岡は、大学進学ではなく就職を決意する。その当時の岡はこのような目標を掲げていた。

「4年後…そう、高校時代のバスケ部の同級生の仲間達が大学を卒業する頃、自分は社会人として成功して、見返してやろうと思いましたね」

「このままじゃダメだ…」と思った社会人生活

時はミレニアムを迎えた2000年、失意の中、決意を持って高校を卒業した岡の社会人生活がスタートしたが、岡の社会人生活は意外な所からスタートする。

「企業に就職はしなかったんです(笑)近所に住む地元のヤンキー達と適当な仕事をしてましたね(笑)」

社会人になってから3年余、岡は企業には就職せず、地元の友人達とその日暮らしの仕事をしていた。仕事内容は多岐に渡るが完全なフルインセンティブの仕事がほとんどであり、収入が0円の月もあれば数百万円の月もある。浮き沈みの激しい給与形態ではあり、宵越しの金は持たず、散財する生活を過ごしていた。

そんな岡に転機が訪れたのは2003年、社会に出て3年目が経った頃だった。

「その時の仲間と“金融業を始めよう”という事になったんですが、ノウハウが全く無いんで…とにかく金融業界に入ってノウハウを身につけようと思って、就職してみました」

そうして岡は社会人生活3年目にして、初めて企業に勤める事となった。就職した会社は事業者向けのノンバンクである金融企業。マンガの例えばかりで恐縮ではあるが、それこそ「ナニワ金融道」のような会社であったと当時を振り返る。

しかし、これまでまともな就職をした事がなかった岡はその企業でカルチャーショックを受けた。

まず「固定給」があることに驚いた。これまでは完全実力主義・成果主義の世界で、休んだらその分の日当が支給されないのは当たり前であり、働くとはそういうものだと思っていた岡にとって固定給の概念は衝撃であった。

同様に社会保険などの福利厚生に関しても初めてその恩恵を受ける事に衝撃を受けた。

業務においても毎日が新鮮であった。

入社したての頃の印象深いエピソードとしては、初めて融資契約を勝ち取ったクライアントの話。融資契約後会社に戻り、当時のOJT担当の上司に報告した所、褒められる事を期待していたが…怒られた。結果としてその後、その上司とそのクライアントの元に同席してヒアリングをした際、その融資は「夜逃げ」の費用だったのである…

そうした失敗談もありつつ、これまではアウトローの世界で生きてきた岡に取って「法律の中で戦う」ことは魅力であり、そこで岡は世の中を渡っていく為の基本を学ぶ事ができた。

ノウハウを知る為に始めた金融業だったが、結果としてそこで7年間勤務した。当時の仲間達には裏切り者扱いもされたが、岡は元の道には戻らなかった。

そして7年間、金融の世界で遮二無二働き、金融マンとして多くの成果を挙げる事ができるようになった岡であったが、この7年間で金融業界の事を多く学ぶにつれて、少しずつ岡の中でこの業務に慣れていく事で変化の無い日常に不満を覚えていった。

「金融機関は金利・法律で縛られていて、商品の差別化が出来ないんです。ですので、誰が貸しても一緒…極論、自分じゃなくても良いと思ってしまったんです」

そうして岡は退職を決意し、知人と2人で会社を立ち上げる事を始めた。

岡は2009年、28歳の頃であった。

始めたビジネスは「古物商」の仕事であり、「整理屋」とも呼ばれる仕事であった。

何らかの事情で仕事を倒産・休業してしまった企業などの物品を整理し、リサイクルや販売を行い捌く仕事であり、その仕事を友人と2人で1年くらい続けたが、現状維持のままで良い友人と、新規ビジネスを立ち上げたい岡で方向性のズレが健在し、結果として岡が会社を去る形となった。

そうして30歳を目前の岡が、次に進もうと決意した業界がイベント業界であった。

結果としてこの日の選択が今の岡を形成する大きな決断となった。

イベント業界を知る前はかなり貴重な体験をした岡。経験の全てが財産になっていると振り返る。

イベントに情熱を注いだ数年間

そうして2010年、岡は初めて「転職活動」を行った。

これまでの岡のバイタリティ溢れる経歴・経験を欲しがる企業は多く、なんとなく応募してみた会社からすんなり複数の内定を頂けた。その1社はインターネット大手企業であったが、結果として岡はそこではなくイベントを行う企業に行くことを決めた。

理由はシンプルに「楽しそう」という理由であった。

「“3億円くらいかけて作った出展ブースなのにたった3日のイベント会期が終わってすぐ潰す”ということは、また次回も3億の価値がある全く新しい事を考えを形にし続ける必要ある!その一生スクラップ&ビルドのクリエイティブさに惹かれて一気に成長できると感じたんです(笑)」

そうして入社したイベント会社で岡が求められた業務は「新規開拓」。

新規受注を取ってくる戦略部隊にてビジネス・デベロップメントを求められた。

イベント業界は秋が忙しいが、それ以外の時期は「仕込み」の時期となり、金融時代は毎日数百件のテレアポを行っていたという話を面接でしていた岡は、新規クライアントの獲得を求められた。そうして岡はその期待に応え、多くの新規顧客を獲得し、契約したクライアントと一緒にイベントを創り上げていく事で、イベント業界に魅了されていった。

そうしてより上の世界を見る為に、2011年にイベント業界大手「サクラインターナショナル」に転身するが、ここでも求められた業務は新規開拓。早々にビジネスデベロップメントグループの責任者を任せられ、飛躍的な売上を記録し、会社の飛躍・発展を最前線で貢献した。

「前職では新規獲得以外にも色々と経験させてもらいました。マーケティング、企業経営、事業運営などで、イベントに関しては本当にこの会社で色々勉強させてもらいました」

そうして順風満帆にサクラ・インターナショナルでイベント業界の経験を積み重ねる岡であったが、イベント業界には1つ大きな課題があった。岡はいつしか、その課題に関して思い悩む時間が増えた。その悩みは「イベント業界におけるIT化の遅れ」である。

「例えば、イベント会場のブースは木工ブースがほとんどなんですけど、その木工ブースを設営できる大工さんを探せないんです。そして大工さんは大工さんで探してもらえないから仕事がなく…仕組みが行き届いていないので、“勿体無い”と思ってましたね」

イベント業界は伝統ある業界で、それこそ明治時代・大正時代の博覧会時代から開催されていた。そうして日本の戦後における高度経済成長を迎えつつあった最中に東京オリンピック、大阪万博という世界規模の大型イベントを実現させ、未成熟の状態で業界が成形されてしまった事で伝統を重んじる、前例踏襲主義の業界となってしまっており、それが故にIT化は著しく遅れていた。

「IT化が進めばイベント業界はもっと良くなる筈なのに…」と、イベント業界の楽しさや魅力を知っているだけに、フラストレーションを抱えていたそんな岡であったが、ある日の偶然の出会いで岡のそのフラストレーションが吹き飛んだ。

bravesoft代表取締役・菅澤英司との出会いである。

「社長とは確か日展協の懇親会で初めて出会ったんです。当時社長はeventosの営業で飛び回っていたのでそこで出会ったんですけど、最初は“ピュアなオッサンだな”と言う印象でしたね(笑)ただ、自分が思い描くことをこの人となら実現できるかも…と思いましたね」

そうしてそこから2年くらい菅澤とのやり取りが始まった。一緒に営業に行くこともあったし、開発中のeventosに関して意見を求められる事もあった。

そうしたやり取りを重ねていくうちに、菅澤の語るeventech(イベント×テクノロジーの造語)の世界の魅力に感じた。

テクノロジーの力でイベントを変えたいが、変えることは出来ないと諦めていた岡であったが、菅澤との出会いでイベント業界は変えられると考えるようになり、そんなある日、菅澤から「bravesoftに来ないか?」と言う打診を受けて、岡は快諾。

eventechを旗印に掲げるbravesoftという船に乗り、イベント業界に革命を起こす為の航海に出る事を決意したのは2017年、岡が35歳になった年の冬であった。

岡がずっとやりたかった「eventech」を実現できると期待を馳せて、bravesoftへのジョインを決心した。

eventosでイベント業界を変えていく

そして晴れて2017年12月、岡はbravesoftの一員となった。

そうしてbravesoftに入社して岡が感じたのは、これまでの業界とのギャップ。

これまではスーツを着て、堅い業界で働いていた岡にとって、私服出勤で毎日のように変化が起きるベンチャー企業のカルチャーは馴染むのに時間が掛かった。

これまでのサラリーマン生活においては、何の決定においても全方位にコンセンサスを取る必要があったが、bravesoftにおいてはそこに時間を掛ける位ならまず行動をしろというスタンスであり、入社当初は「遠慮しすぎ」とも言われた。

そして、入社当初に菅澤に言われて今も忘れないのがこの言葉。

「“派閥は絶対に作るな”と言われたのは凄くカルチャーショックを受けましたね」

これまでのサラリーマン生活において、そこまで意識をした事はなかったがどうしてもそのような派閥は存在していた事がに違和感を感じていた。しかしながら菅澤はそれを強く禁じた。そうした組織の理論で言動が制限されるより、フラットな環境で自由な意見を求めた方が建設的である、という理由である。

そして、やはり“API”も”token”も初めて聞く言葉であり、IT知識の不足は当初ハンデとなった。

しかしながら過去を振り返ってみると金融業界でもイベント業界でも最初は何も分からない状態で始まったが、がむしゃらに働く中で業務も覚えていった過去の自分を信じ、自分のやりたいように仕事を進めた。

岡はまずこれまでのイベント業界で培ったコネクションを利用し、eventosの紹介を片っ端から行った。しかしながらその中で実際に導入してくれたのは1社(日本包装機械工業会様)のみ。

eventosは良い筈なのに、まだまだ業界に「絶対に必要だ」と思われていない事が分かり、その屈辱は岡のハートに火をつけた。

「むしろ、eventosにはまだまだ伸び代があると感じましたね」

そうして岡がbravesoftに入社した翌年から、bravesoftはeventosへの投資を本格的に開始する。まずはeventosの作り直し。

eventos1.0と名付けたプロジェクトが始動し、継ぎ足しで改修を続けていたeventosを全面リニューアルを行いながらも体勢強化を始め、多くのセールス・ディレクター・エンジニアがeventos事業部にジョインした。

その組織で岡は早々に副部長を任せられ、その翌年2019年にはメンバーが増えたeventos事業部が「営業・ディレクター」と「エンジニア」に二分する事となったなり、前者であるeventos
growth事業部の責任者となり、責任がさらに増えたが、その責任は期待の現れであり、モチベーションは上がった。そして2021年現在は同部署はCustomer
Success事業部に名前を変えて、顧客のイベント体験の成功に向けて何ができるか、何をすべきかを毎日考え、トライアンドエラーを続けている。

そして今なお猛威を奮っている新型コロナウイルスの影響で軒並みオフラインイベントは中止となり、eventosもロードマップの変更を余儀なくされ、オンラインを中心とした開発を行っているが、その中でも岡の表情は明るい。

「コロナはチャンス以外の何者でも無いと思っています。イベントの在り方が進化し、これまで以上にオンライン化が押し進む事で、“基本はオンラインイベントで、リアルイベントが貴重”という形になってくると思いますので、まさにeventosが業界を変えていくチャンスですよね」

冒頭でも触れたが、岡には人を惹きつける魅力があり、小学校時代の岡の友人である丹羽(Product
Development事業部長)や、前職時代に凌ぎを削ったライバルの西村(社長室長)が「岡と一緒に働きたい」という思いでbravesoftの扉を開き、今では両名とも第一線で活躍している。

「イベント業界を変えていきたい」と言う岡の思いに惹かれた仲間が集まり、昔の友達やライバルと今は同じ目標を目指している。それは「俺達でこの中学校を強くしよう」と中学校時代の仲間だけでバスケットボールをしていた頃から変わらない、岡の生き方でありスタンスである。

イベントを誰よりも愛し、イベントに誰よりも愛されている男。

そうして信頼できる仲間と、何よりも可能性を感じるeventosを携えて、イベント業界の時代を変えていく岡の旅はまだまだこれからも続いていく。

「イベントDXはbravesoftが、eventosが新しい時代を創っていけると思っています!」

eventechを実現できる仲間が集まり準備は整ったので、あとは結果のみ!と語る岡の表情は明るい。

記)

岡の一冊

起業の天才!|江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男

今では、時価総額8兆円の巨大企業「リクルート」の創業者 江副浩正さんの生き様が語られてる著書「リクルート事件」が起きた1988年、私は小学生でした。その時の印象は「犯罪者」でしかなかったのですが、社会に出てから営業畑だった私には江副浩正さんの話はいつでもついて回りました。いつしか「日本最強の起業家」なのに「犯罪者?」という疑問で溢れていき、気になって仕方ない存在になっていました。この著書で好きなフレーズが、「もっといかがわしくなろう」です。これは悪い商売をするという意味では無く、何をやっているかわからないくらい、怪しく見えるくらい、時代を先取りした行動をしていた!という事だと思います。時代の最先端を行く今までにない常識を作る人というのは、こういう人なのだなと、胸を熱くさせる一冊です。