社員紹介 Vol.18 西村 航 - bravesoft

bravesoftの
プロフェッショナル社員

社員紹介 Vol.18 西村 航

西村の履歴書

bravesoftの社長室長!笑顔がステキですね!
  • 1981年9月 埼玉県三郷市にて生誕
  • 1984年4月 千葉県印旛郡(現在の印西市)に引っ越し
  • 1987年4月 内野小学校 入学
  • 1994年4月 原山中学校 入学
  • 1997年4月 船橋市立船橋高等学校 入学
  • 2000年4月 駒澤大学 経済学部商学科 入学
  • 2004年4月 株式会社博展 入社
  • 2020年1月 株式会社Eventhub 入社
  • 2020年4月 bravesoft株式会社 入社、eventosのセールス部門を担当
  • 2020年7月 執行役員に就任し、同時に社長室長を担当

西村の流儀

はじめに

ベンチャー企業において、必要なマインドとはどのようなマインドとなるだろうか?

色々な解釈があり正解は無いが、多くは「独創性をもった新事業の推進」「積極的なチャレンジ」「多くのアクション実現」など、アクセルを踏み、事業拡大にドライブしていく内容を思い浮かべる人が多いのではないかと筆者は推察する。

御多分に洩れず、bravesoftの経営メンバーであるCEOの菅澤、CTOの清田CDOの青木を筆頭に、bravesoftの行動憲章“bravespirits”の「迷ったら挑戦」「上を目指す」を重視し、攻めの姿勢を持ち続けている社員が多く、こうした意識を高く持ち続ける社員が今日のbravesoftを支えている。

しかし、考えて見て欲しい。
ここでサッカーを例に説明させていただくが、攻撃のポジションで点を取る選手だけでサッカーは勝てるのか?答えは「NO」である。
どんなチームでもしっかりと守れるディフェンスやゴールキーパーがいなければゲームは成立しないし、「個」だけの力では限界があり、組織で一枚岩にならないとサッカーでは勝利することができない。
それはサッカーチームだけでなく、会社組織においても同様である。
「予算」「利益」「タイミング」などを鑑みてブレーキを踏む、守れる社員もまた必要なのだ。

今回紹介する西村は、bravesoftの社長室長として、全社における経営活動や予算管理、全部門における包括的な管理を行い、分類するならば「守り」の社員であるが、そのルーツを辿ると実際にサッカー選手としてキャプテンとして守備を統率していた学生時代、営業最前線で活躍してマネジメント〜経営企画に携わった前職時代と様々な経験を経て、点を取ることより「点を取らせること」にやり甲斐、面白さを感じる縁の下の力持ちである。

そして、そのような一歩引いたポジションで在りながらも、その情熱は誰よりも熱く、時として誰よりも「攻める」気概を打ち出しながらbravesoftの屋台骨を支える、そんな社長室長・西村に関して本日は紹介させていただく。

bravesoftをしんがりで支える、プロフェッショナル社員である

プロのJリーガーを目指して、 “イチフナ”サッカー部へ

1981年10月、埼玉県三郷市で西村は生を受けた。
家族構成は両親と5歳年上の姉、2歳年上の兄の5人家族。父親は商社の総務担当、母親はパートとして働く一家で西村はすくすくと育った。
3歳の頃に新興住宅街の千葉ニュータウンに家を購入し、千葉県印旛郡(現在の印西市)に引っ越したので、西村の幼少期の記憶は千葉時代から始まるが、この頃の西村にあまり良い思い出はない。
どちらかと言うと、気の弱い“いじめられっ子”だった。

それは地元の内野小学校に入学してからも続き、引っ込み思案な性格で周りの友達からイジられ、辛い日々を過ごしていた。

そんな西村の性格が一変したのはサッカーとの出会いだった。

西村がサッカーを始めた1990年、開幕を控えていたプロサッカーリーグ“Jリーグ”ブームの萌芽が日本全国各地で起こりつつあり、この時期にサッカーを始める小学生は多かった。
西村もこの時期にサッカーを始めたが、サッカーの影響ですぐに引っ込み思案な性格は変わり、毎日のように日が暮れるまでボールを追いかけていた。
内野小学校は印旛郡では強豪であり、練習は厳しく、休みもほとんど無かったが、とにかくサッカーが楽しくてしょうがない、サッカーに明け暮れる日々であった。

最終学年の頃は副キャプテンとして守備の要であるスイーパーを任せられた。
対人へのディフェンス能力の高さはさることながら、危険を察知してのカバーリングなど、フィールドの最後方からゲーム全体の状況を見て、的確な指示を出すこと。
今の仕事観に繋がる価値観は、この頃のサッカー経験から学んだ内容が多い。

中学校は同じく印旛郡の原山中学校に進学して、変わらずにサッカーに没頭した。
原山中学校は新設でありながらもサッカー部は強く、県大会ベスト16まで進出する強豪であった。
最終学年の頃はキャプテンを任せられ、変わらずに守備の要としてチームの躍進を最後尾から支えた。

「とにかく自主練習ばっかやってましたね。部活が始まる前から自分で準備して、誰よりも先に始めるタイプでした」

この時代は強豪校・伝統校は慣わしとして、入部したての1年生がそのような雑用を行うケースが多かったが、西村はそのような慣わしを嫌った。雑用も率先して自分でやるタイプのキャプテンはプレー面でも人格面でも慕われた。

そして時間を少し戻すが、西村がキャプテンになった1年前の中学2年生の夏、印旛郡の選抜チームに選ばれていた西村であったが、このチームでフランスに遠征することとなった。
その遠征で対戦したのは、今や世界有数の強豪として名を馳せているパリ・サンジェルマンの下部組織などであり、この遠征を機に西村のサッカー観、世界観は大きく変わり、このような決意を立てた。

「将来はプロのサッカー選手になって、世界で活躍する選手になりたい」

そして中学卒業後、西村が進路に選んだのは千葉県のみならず日本有数の強豪校である“イチフナ”で有名な市立船橋高校。
日本中からイチフナでサッカーをやることを夢見て、サッカーに自信がある中学生が毎年全国から集まり、青のユニフォームを目指して熾烈なポジション争いを行う。西村が入学したこの年にも100人の同級生がサッカー部に入部し、その中には高校進学後、プロのJリーガーとして活躍した羽田憲司選手、黒河貴矢選手、原竜太選手もいた。

そんなイチフナのサッカー部は新入部員の半分位は入部して1ヶ月くらいで、周りのレベルの高さに圧倒され、練習についていけず、自信を失くし、壁を感じてサッカー部を辞めてしまう。
西村は1年間、雑用をこなしながらハイレベルな選手たちに揉まれて必死にくらいついたが、1年目の冬の合宿が終わった時に燃え尽き、やり尽くしたと感じてスパイクを脱ぐことを決意した。

「やっぱり同級生のプレイを見ても、“これと同じレベルではできないな”と思うようになって、自分はプロにはなれないなと思ったんです。それでスパッと諦めました」

小学3年生の頃から高校1年生まで8年間続けたサッカー。
残念ながらプロにはなれなかったが、サッカーに明け暮れた経験は今の西村の財産となっている。

「基本的にディフェンスだったので、全体を常に俯瞰することや、自分が点を取るよりそれをサポートすることにやり甲斐を感じたので、それが今の仕事観に繋がっていると思ってます」

尚、それから2年後、西村が最終学年になった1999年冬の日本の高校No.1を決める高校選手権で、この代の市立船橋高校サッカー部は、“全試合無失点”という偉業で優勝したことから、西村の主戦場であった同世代のディフェンダーは高校史上最もハイレベルなポジション争いがあったことを付記しておく。

高校選手権決勝は国立で応援し「優勝して本当に嬉しかった」と述懐する。嫉妬や後悔は無かった。

バリバリの営業マンとして世界中のイベントを運営

これまでの人生をサッカーに明け暮れていた西村は、サッカー部を辞めて体力を持て余していた。

高校2年生の頃はアルバイトに明け暮れた。
新聞配達と蕎麦屋のアルバイトを毎日行い、1年で100万円を貯めて中学校時代のフランス遠征で立て替えてもらったお金の返済もした。働くのが楽しく、充実していた。

そして商業科に通っていた西村は授業で簿記も行っており、日商簿記2級の資格も高校在学中に取得していた。
そうした資格を保有していたこともあり、指定校推薦で駒澤大学に進学した。

大学時代はサーフィンに明け暮れていた。
体育会系のサーフィン部に入部し、大会に出場し、サーフィン目的で海外にも行った。
ただ、プロのサーファーを目指そうとは思わず、大学3年生の頃に就職活動を開始したが、この頃何気なく見ていたドラマが西村の人生に大きく影響を与えた。

「“恋のチカラ”というドラマを見ていて、広告代理店に憧れたんです。そこで人が作ったものを売るより、自分がプロデュースすることをやりたいと思って、それを軸に就職活動をしていましたね」

そうして広告代理店や制作会社、イベント会社に絞って就職活動を行う。
その中でトントン拍子で内定を獲得したイベント会社「博展」に行くことを決意した。

そうして2004年、株式会社博展に入社し、西村の社会人生活はここからスタートした。
入社後はとにかくひたすら営業。テレアポ、飛び込み営業をひたすら行い、週に3回は徹夜し、24時間丸々働いた。

「自分は“営業をやりたい”という思いがあったので、当時はそれが当たり前だと思ってましたし、まぁいい感じに力を抜きながら仕事してましたので、特に辛いとかなかったですね(笑)」

激務ではありながらも、イベント業界の営業担当として日本全国のイベント会場に出張するのは楽しかった。
そうして2年間で経験を積み、年間取引額トップクライアントも担当し、2006年にチーフに昇進する。

「どんどん上のポストの人たちが転職して行ったというのもありますが、昇進意欲は昔から高かったですね。大きなことをやるには、大きな肩書きが必要と思っていましたし、最終的には社長を目指していましたので」

こうしてチーフとして、ここで初めてマネジメントを経験するも、しっかりと売上面でも教育面でも成果を出し、課長〜部長と着実にステップアップを行った。

日本だけではなくイギリスに1ヶ月くらい滞在して現地のイベントを取り仕切るなど、裁量や仕事の規模がどんどん大きくなっていった。そしてこの間にリーマンショックや東日本大震災など、世界的な不況や厄災で大打撃も経験したが、そこで培った全てが経験になっている。
自身と会社の成長を実感し、充実した日々を過ごしていた。

「ただ、当時は“それが普通”と思って働いてましたが、本当にアナログな世界でした。デジタル活用は全く進んで無かったですね」

イベント業界はまだまだ旧態依然、前例踏襲主義の時代であり、イベンテックの概念とはほど遠い世界だった。
その中でも西村は“顧客満足”を意識した。イベントがリアルからオンラインに、デジタルに変わってもイベントの本懐は「お客さんが満足すること」であり、その価値観を常に最優先として掲げていた。

その価値観を大切にしていた中で、少しずつ西村のビジョン・ポリシーに対して、売上至上主義の経営陣と意見が合わず、会社を離れる決意をしたことがある。

「売上拡大のための新規受注ではなく、顧客満足度向上に重きを置いて既存顧客を重視した戦略を行った時期があったんですけど、その際に会社の売上が一時的に少し下がってしまい、その際は揉めましたね(笑)今思えば経営サイドの意見も分かるのですが、当時はそこで意固地になってしまい、転職活動を開始しました」

そうしてこれまでのイベント業界の経験を認められ、早々に内定を獲得して会社を離れようと相談した矢先、上層部より退職を引き止められ、新たなポジションを提案された。
今も続く「経営企画」のポジションである。
新しい業務に魅力を感じた西村は退職を撤回し、経営企画のポジションに移ることとなった。

「そこから3年間、経営企画のポジションで働きましたけど、非常に勉強になりましたね。経営の数字や、会社の戦略に触れられたのは楽しかったです」

中期経営計画の策定や予算管理、特命業務などの経営全般業務や、業務改善や基幹システムのリプレイスなど全社横断プロジェクトの推進など、これまでとは全く違う会社経営全般に関わる業務に従事した。

そうしてイベント企画に触れ、経営に触れ、社会人としても円熟した西村に新たなモチベーションが芽生える。

それは「起業」という選択であった。

前職時代のエピソードを楽しく語る西村。全てが大切な思い出として輝いている。

起業をbravesoftで実現するという考え

起業に関して、事業の構想は既に十分にできあがっていた。
そうして長年働いた博展を離れることに決めたが、必要なのはまずは資金。

1年間武者修行を行い、資金と経験を貯めてから起業したいと考えた西村は、シード期で創業フェーズのイベントプラットフォームを提供するEventhubにて契約社員として勤務することを決断した。

そして2020年1月から業務を行ったが、その直後に世界中を震撼させた新型コロナウイルスに直面し、世の中からイベントが全て止まってしまった状態で、西村はこのまま働き続けることに疑念を抱いた。

そんな最中、博展の営業担当時代、凌ぎを削ったライバル会社の営業担当・岡から着信があった。
岡とは同い年であり、ライバルながらも一目置く存在であった為、半年に1度程度飲む間柄であったが、そこでコロナ禍のイベントの在り方や将来の起業に対する話をすると、「だったらうちに来ない?」と相談を受けた。

そこからbravesoftの動きは早かった。
早々に代表の菅澤や当時の人事・財務責任者と会い、西村の志望度は高まっていった。

bravesoftが掲げるイベンテックや、スピード感に徐々に魅力を感じました。社長室長のポジションで誘っていただきゆくゆくは社内起業という選択肢も魅力的でした」

そして、西村が今でも印象に残っているのは、入社前に菅澤と会食をしている際にもらったこの言葉。

「“1万人の会社を作るより、100人の会社を100個作りたい”という言葉に共感しました。その上で自分の事業も是非実現して欲しい!とも言っていただけたので、そこからは迷わずbravesoftに入社しようと思いました」

そうして2020年4月、コロナの猛威はピークを迎えており、完全リモート勤務という難しいこの時期に西村はbravesoftに入社した。

上場企業である博展で経営企画を担当していた西村の目から見て、まだまだ十分に行き届いていない所に対しては改善案を提示・進言した。
他方、イベンテックの“テック”の部分に対しては、必死でインプットした。

世の中はオンラインイベントに少しずつ切り替わりつつあり、その中でeventosは存在意義を証明しつつあった。イベント業界においてDX化がコロナの影響で10年進んだとも言われているが、その時代の変遷をbravesoftで働く最前線で体感した。

そして入社して3ヶ月後の7月から、執行役員就任と共に社長室長に就任。
ここから体験する業務も西村にとっては新鮮で、勉強になる業務が大半だった。

「株主とのやりとり、銀行とのやりとり、証券会社・監査法人とのやりとりなどは、未経験の業務でしたが非常に楽しかったです。あとは、なんと言っても資金調達ですね」

資金調達に関しては、西村が個人的に綴っているnoteの手記も併せてご覧いただきたい。
未経験の状態から資金調達を実現したことに対して、冒頭では支えてくれた人達への感謝、そしてこれから成し遂げたい決意が記されている。

そして次に、西村が掲げる次なるミッションは「IPO」である。

「ようやくコロナが収束傾向なので、この2年間は我慢が続く苦しい時期でしたが、一気に取り戻して行きたいですね!その過程でIPOを目指していますし、その先に起業があるので、数年以内にIPOと社内起業を実現させたいですね」

起業に関してはもちろん諦めてはおらず、今の目標であるIPOが終わってから着手を考えている。

Event Workerと共に

最後に、西村が目指す“起業”における事業内容について、紹介させていただきたい。

「自分が博展の営業で働いていた時、営業やPM、ディレクター、制作などイベント人材が報われないと思っていましたので、イベントに関わる人の満足度を高め、働きやすいと思える、そんな会社を創りたいと思っています」

事業に関しての詳細については、同じく西村がnoteに綴っている内容を参照いただきたいが、イベントを開催する際に、「どの会社に頼むか」ではなく、「誰に頼むか」を実現する世界観。
イベントに携わる人々を「event worker」と定義し、event workerのポテンシャルを解放し、イベントをより充実させたいという思いは、イベント業界に精通した西村だからこその思いであり、それを実現させるグランドデザインはすでに出来上がっている。

もうすでに会社名も決めている。
あとはタイミングを見計らい、実現に至るのみ。
その上で、今bravesoftの命題である「IPO」を成し遂げて、西村の挑戦はまだまだ続いていく。

「日本のイベントのクオリティはとても高いんです。ただ、それはまだまだ知られていないので、bravesoft、eventosを通して、event workerをどんどん世界に輩出し、日本のイベント文化や人材の魅力を伝え、イベント大国・ニッポンを世界中に知らしめたいですね」

記)

西村の一冊

DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール

お金の「貯め方」ではなく「使い切り方」に焦点を当てたこれまでにない「お金の教科書」です。 私自身も40歳という節目を迎え、子供の将来や老後の蓄えなど、貯金が減っていく、足りなくなる、という大きな不安を感じていましたが、人生における豊かさとは何か?を根底から考えさせられ、豊かさの土台となる時間・健康・お金をどうバランスしていくべきか明確な答えを得ることができました。 人生は体験にこそ価値がある。まさに、eventechです。